古い唄で恐縮なのですが。
美空ひばりの『東京キッド』が1950年、ザ・ピーナッツの『心の窓にともし灯を』が1959年暮れ、とのことですが、ザ・ピーナッツを先に聴き、美空ひばりが後になりました。『東京キッド』は10年ほど前に聴いたのですが(その前に聴いたことがあったかもしれません、憶えていないだけで)、「右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチュウインガム」で、『心の窓にともし灯を』を思い出したのです、「ポッケにゃなんにもないけれど」というフレーズを。
1945年に戦争に負けて、なにもないところから再出発した日本です。それから15年経っても、まだ貧困はつきまとっていたのです。池田内閣で所得倍増計画が閣議決定されたのが1960年12月のことで、翌年度から実施されました。日本は高度経済成長期に入ったのです。その少し前から国民総中流がいわれるようになり、1970年には9割が中流と答えるまでになりました。
さて、バブルの崩壊から10年ほど経ったころ、日本の失われた10年といわれ始めるときに、『東京キッド』を聴き、『心の窓にともし灯を』を思い出したわけです。この頃は、まさか失われた20年になるとは、思ってもいなかったのですけれども。
今は、ポケットにはいっぱいいろんなものが詰まっているけど、本当に必要なものは、入っているのだろうかと。ポケットをいっぱいにすることに夢中になって、何かを忘れたのではないのかなぁと。
以前は空のポッケと夢があったはずなのに、今はふくらんだポケットと、そしてどこかに忘れた夢かなぁなどと考えていたのでした。
今から10年前を振り返ると、まだポケットにはいろんなものが詰まっていたのですが、それから10年、ますます増えるワーキングプアをみると、ポケットが空になり、夢をなくしてしまった人たちは、どうすればいいのでしょうか。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
ぢつと手を見る
啄木
2011年2月25日金曜日
2011年2月20日日曜日
松本和代の『もな子…しゃべり勝ち!』
この人の単行本は四冊しか出ていないようです。『もな子…しゃべり勝ち!』は二冊目です。
高校二年生のもな子の、まぁ言ってしまえば、どたばた恋物語なのです、甘くはないけれども。といっても悲恋ではありませんので、ご安心を。
主な登場人物は、もな子、親友のカンナ、他校生の樫本くん、北炭先生、そして恋敵の中学生の史織ちゃんの五人です。もう一匹、樫本くんの飼い犬ノリノスケを忘れてはいけませんでした。
もな子は弁論部に所属していて、弁舌の立つほうだと思っています。そして、将来は環境庁の長官になると張り切っています(環境庁が環境省になったのは2001年です)。
そんなもな子を心配して、カンナは恋のおまじないのカメを作ることを勧めますが、もな子は、それを一笑に付します。けれど、密かに「4時半の君」と名付けた男性に恋心を抱いているもな子は、カメを作って、その男性に渡そうとします。ところがノリノスケの登場でそれもできず、飼い主の樫本くんと知り合います。
後日、もな子は知ることになりますが、「4時半の君」は、世界史の北炭先生として、もな子の前に現れ、樫本くんの家に大学生の時から下宿しています。
この樫本くんは、来るべき食糧危機に備えて、巨大ナスを作る研究をしています。ナスはもな子の好物でもありました。
あとは、どたばたコメディーになります。
全体の2/3ほどのところから史織ちゃんが登場します。恋のさや当てが始まるのですが、マンガのタイトルとは違って、もな子は、口では史織ちゃんに敵わないのでした。
樫本くんに、妹として好きだと言われて落ち込む史織ちゃん、元気づけようとして史織ちゃんに好かれて困り顔のカンナ、そして……。
ナスの季節が終わり、つぎは巨大大根に挑む二人、話しながら笑いあう二人の後ろでは……でマンガは終わります。
植物の巨大化以外は、いかにもありそうなお話で、さて何でこんなマンガが印象に残っているのかなぁと思うのですが。
北炭先生以外の登場人物、特に樫本くんと史織ちゃんの思い込みの激しさが、このマンガの命なのでしょう。たぶん、樫本くんの中では、巨大植物を作るのが一番で、もな子はその次なのでしょう、でも、それはもな子の中ではどうでもいいのかもしれません。きっともな子は、巨大植物を作る夢を持った樫本くんを好きになったのでしょうから。
絵はいわゆる少女マンガの絵ではありません。よく言えば個性的な絵です。また、マンガのタイトルとは異なり、もな子が誰かにしゃべりで勝つということは滅多にありません。
書名『もな子…しゃべり勝ち!』
出版社 集英社 集英社漫画文庫
昭和56年10月25日 第1刷発行
高校二年生のもな子の、まぁ言ってしまえば、どたばた恋物語なのです、甘くはないけれども。といっても悲恋ではありませんので、ご安心を。
主な登場人物は、もな子、親友のカンナ、他校生の樫本くん、北炭先生、そして恋敵の中学生の史織ちゃんの五人です。もう一匹、樫本くんの飼い犬ノリノスケを忘れてはいけませんでした。
もな子は弁論部に所属していて、弁舌の立つほうだと思っています。そして、将来は環境庁の長官になると張り切っています(環境庁が環境省になったのは2001年です)。
そんなもな子を心配して、カンナは恋のおまじないのカメを作ることを勧めますが、もな子は、それを一笑に付します。けれど、密かに「4時半の君」と名付けた男性に恋心を抱いているもな子は、カメを作って、その男性に渡そうとします。ところがノリノスケの登場でそれもできず、飼い主の樫本くんと知り合います。
後日、もな子は知ることになりますが、「4時半の君」は、世界史の北炭先生として、もな子の前に現れ、樫本くんの家に大学生の時から下宿しています。
この樫本くんは、来るべき食糧危機に備えて、巨大ナスを作る研究をしています。ナスはもな子の好物でもありました。
あとは、どたばたコメディーになります。
全体の2/3ほどのところから史織ちゃんが登場します。恋のさや当てが始まるのですが、マンガのタイトルとは違って、もな子は、口では史織ちゃんに敵わないのでした。
樫本くんに、妹として好きだと言われて落ち込む史織ちゃん、元気づけようとして史織ちゃんに好かれて困り顔のカンナ、そして……。
ナスの季節が終わり、つぎは巨大大根に挑む二人、話しながら笑いあう二人の後ろでは……でマンガは終わります。
植物の巨大化以外は、いかにもありそうなお話で、さて何でこんなマンガが印象に残っているのかなぁと思うのですが。
北炭先生以外の登場人物、特に樫本くんと史織ちゃんの思い込みの激しさが、このマンガの命なのでしょう。たぶん、樫本くんの中では、巨大植物を作るのが一番で、もな子はその次なのでしょう、でも、それはもな子の中ではどうでもいいのかもしれません。きっともな子は、巨大植物を作る夢を持った樫本くんを好きになったのでしょうから。
絵はいわゆる少女マンガの絵ではありません。よく言えば個性的な絵です。また、マンガのタイトルとは異なり、もな子が誰かにしゃべりで勝つということは滅多にありません。
書名『もな子…しゃべり勝ち!』
出版社 集英社 集英社漫画文庫
昭和56年10月25日 第1刷発行
2011年2月12日土曜日
阿保美代の『真夏に真綿の雪が降る日』
先日、漆原友紀の『水域』を読んでいてふと思い出したのが、阿保美代の表題のマンガでした。『水域』は、上下470ページの大作ですが、『真夏に真綿の雪が降る日』は、たった8ページの小品です。でもその中に詰まっているものは、とても大きいのです。
阿保美代のファンのかたが、以下のサイトを作っています。
http://abosan.web.fc2.com/top.html
8ページのあらすじというのもどうかと思うのですが、これがないと感想が書けませんので。
あやは、朝、目を覚まします。「遠くのほうで かねの音や たいこの音が 聞こえる(中略)きょうは 特別な日だ!」ということで、ひとりで、「きれいに かざられた きょうの料理」を食べ、「大好きな 朝顔の もよう」のゆかたを着ようとします。「おかあちゃん 帯 むすべない」と呼んでも、「みんな でかけてる きょうは 特別な日 だからだ」と、涙ながらに納得します。
外へとでかけますが、誰にも会えません。学校に行っても誰もいません。村を見つめながら、あやは考えます。「かねとか たいこの音 たしかに 聞こえるのに みんな どこさ いるんだべ」と。
帯がとけて泣いているあや、動くものが目に入ります。こわれた手風琴とこわれた人形でした。その人形はあやが無くしたと思っていたものです。あやは人形を連れ帰ります。おなかいっぱい食べ、「あやは 人形と いっしょに ねむる」 と、ここまでで6ページです。
以下の2ページで語られることが表題の意味になります。
「雪のように 光る あわい あわいものが そっと ふってきて やさしく あやを つつむなかで あやは ねむる……」
たった10で、はやりやまいで逝ってしまったあやの墓参りにきている母親と、あやぐらいの年頃の子ども(あやねえちゃんと子どもは言っています)。特別の日とは、お盆のことだったのがわかります。
あやの亡くなった後で、村はダムの底に沈みます。
新しく作ったお墓にあやの骨はあるのですが、あやが生まれ育って、そして死んでいったダムの底の家に、あやの魂は帰ってきているのではと、母親は言うのです。
「くる年も くる年も その子は 水の中の村さ たった ひとり 帰ってきて ひとり 遊ぶ(中略)泣きつかれて 真綿の雪が ふりつもるまで……」とお話は終わります。
繰り返しになりますが、最後の二ページで、なぜあやがひとりぼっちなのかがわかるのです。ところで、「みんな どこさ いるんだべ」との、あやの思いはどこに行くのでしょうか、「真綿の雪が ふりつもるまで……」続くのでしょうか。それでは、あまりに救いがないと思えるのです。
あるいは、将来母親があやのもとへいったときに、あやは救われるのでしょうか。
一度目はすらっと読めたのに、読み返したときには、あちこち、つっかえてしまいました。なぜあやがひとりぼっちか、わかっていて読むと、また、違った思いが湧いてくるのです。
ダムに沈むということ以外にも、『水域』との共通点はあるようですが。
投稿の時季が半年ずれていますが、そのへんは大目にみてください。
タイトル『真夏に真綿の雪が降る日』
書名『アボサンのふるさとメルヘン2』
出版社 講談社
昭和57年11月15日第一刷発行
阿保美代のファンのかたが、以下のサイトを作っています。
http://abosan.web.fc2.com/top.html
8ページのあらすじというのもどうかと思うのですが、これがないと感想が書けませんので。
あやは、朝、目を覚まします。「遠くのほうで かねの音や たいこの音が 聞こえる(中略)きょうは 特別な日だ!」ということで、ひとりで、「きれいに かざられた きょうの料理」を食べ、「大好きな 朝顔の もよう」のゆかたを着ようとします。「おかあちゃん 帯 むすべない」と呼んでも、「みんな でかけてる きょうは 特別な日 だからだ」と、涙ながらに納得します。
外へとでかけますが、誰にも会えません。学校に行っても誰もいません。村を見つめながら、あやは考えます。「かねとか たいこの音 たしかに 聞こえるのに みんな どこさ いるんだべ」と。
帯がとけて泣いているあや、動くものが目に入ります。こわれた手風琴とこわれた人形でした。その人形はあやが無くしたと思っていたものです。あやは人形を連れ帰ります。おなかいっぱい食べ、「あやは 人形と いっしょに ねむる」 と、ここまでで6ページです。
以下の2ページで語られることが表題の意味になります。
「雪のように 光る あわい あわいものが そっと ふってきて やさしく あやを つつむなかで あやは ねむる……」
たった10で、はやりやまいで逝ってしまったあやの墓参りにきている母親と、あやぐらいの年頃の子ども(あやねえちゃんと子どもは言っています)。特別の日とは、お盆のことだったのがわかります。
あやの亡くなった後で、村はダムの底に沈みます。
新しく作ったお墓にあやの骨はあるのですが、あやが生まれ育って、そして死んでいったダムの底の家に、あやの魂は帰ってきているのではと、母親は言うのです。
「くる年も くる年も その子は 水の中の村さ たった ひとり 帰ってきて ひとり 遊ぶ(中略)泣きつかれて 真綿の雪が ふりつもるまで……」とお話は終わります。
繰り返しになりますが、最後の二ページで、なぜあやがひとりぼっちなのかがわかるのです。ところで、「みんな どこさ いるんだべ」との、あやの思いはどこに行くのでしょうか、「真綿の雪が ふりつもるまで……」続くのでしょうか。それでは、あまりに救いがないと思えるのです。
あるいは、将来母親があやのもとへいったときに、あやは救われるのでしょうか。
一度目はすらっと読めたのに、読み返したときには、あちこち、つっかえてしまいました。なぜあやがひとりぼっちか、わかっていて読むと、また、違った思いが湧いてくるのです。
ダムに沈むということ以外にも、『水域』との共通点はあるようですが。
投稿の時季が半年ずれていますが、そのへんは大目にみてください。
タイトル『真夏に真綿の雪が降る日』
書名『アボサンのふるさとメルヘン2』
出版社 講談社
昭和57年11月15日第一刷発行
2011年2月8日火曜日
粕谷紀子の『花園を求めて』と『花園を見た日』
ふたつの作品を取り上げたのは、同じような少女を取り扱いながらも、まるで違った結末になっているからなのです。
『花園を求めて』は1975年ちゃお秋の増刊号、『花園を見た日』は1978年プチコミック早春の号に載ったものです。『花園を見た日』はプチコミックで読みました。これはこの号の特集が「倉多江美の世界」でしたので買ったのです。『花園を求めて』はその後の1978年3月に出版された単行本「水の中の星」で読みました。
『花園を見た日』は単行本には収録されていません。
ページ数ですが、『花園を求めて』は25ページ、『花園を見た日』は48ページです。『花園を求めて』の二倍の長さになった分、『花園を見た日』のほうが細かいところまで描かれています。
それではこのふたつの作品をみていきましょう。以下『花園を求めて』は『求めて』、『花園を見た日』は『見た日』と記すことにします。
表紙の絵はかなり違いますが、それは置いておきます。
まず最初のページですが、両方とも山を見つめる少女のななめ後ろの絵から始まります。『求めて』は山が遠景にありますが、『見た日』では中景になっています。また少女の視線が『求めて』では山の頂を見つめていて少し頭が上を向いているようです。『求めて』では風は少女の前から吹いていますが、『見た日』では後ろから吹いています。
一番大きな違いは、『求めて』では雲間から漏れる、ほのかな光が太陽を暗示しています。一方の『見た日』では黄色い弱々しい太陽が描かれているだけです。この太陽は薄い雲を通して見た太陽のようです、輪郭がぼやけていてかすかな光が漏れているようにしか見えません。これが実は結末を暗示しているのですが、最初に読んだときには少し絵が違うといった程度にしか思いませんでした。
「この冬枯れの 荒涼とした土地の どこに 花園があるだろう ーー?」「聞こえるのは むなしく 荒野を吹きわたる 風の音ばかり」という書き出しで二つのお話は始まります。
『求めて』には、さらに「1840年 フランスの片いなか」とあります。
主な登場人物は主人公の少女テレーズ、農園に新たに雇われた中年の男(ジェローム、『求めて』には名前は出てきません)、主人公が働いている農園の女主人(イヴォンヌ、『求めて』には名前は出てこなくて、二コマだけ姿が描かれています)、女主人の甥だという若いツバメ(アルフォンス、『求めて』には名前は出てきません)の四人です。
テレーズはそれなりの家庭に生まれますが、父が亡くなり、零落していきます。それでも母は平気な顔をしています。なぜ平気なの? と幼いテレーズに問われて、母は答えます。「心の中に 幸せな 思い出を(中略)それはそれは 美しい花園の ようなもの」を持っているからだと。
物語の始まる前の年に母も亡くなり、テレーズは農場で働き出します。
以下、まず『求めて』のあらすじです。
いつも花園を夢見ているテレーズは、周りから孤立しています。若いツバメに乱暴されそうになったところを、中年の男に助けられます。男はテレーズに言います。「なぜ街に行かないんだ?」 それに対してテレーズは答えます。「花園を待っているの」と。
その後の会話で、この男が10年前に妻を残して街に出た、この農園の主だとわかります。しかし、男は「十年前に家を出た男だ」といって名乗り出ようともしません。
クリスマスのミサに、農園に残されたテレーズは、またも若いツバメにおそわれます。このときにも中年の男が農園に残されていて、テレーズを助けようとします。男は銃を取り出すのですが、止めようとするテレーズ、その隙を突いてツバメは男に襲いかかり、男を撃ってしまいます。
瀕死の男は次のように言います。「きみは花園をみつけたろう?(中略)今度は広い世界へ ほんとうの幸せをさがしに行くんだ」
そして、テレーズが街に出るところでお話は終わります。
次いで『見た日』のあらすじです。
出だしはほとんど変わりありません。周りから孤立するテレーズを見て男は思います。「おれは10年かかった"もっとべつの生活"などありはしないということを悟るまで」
寒い地下室に誤って閉じ込められたテレーズは、半死半生で助け出されます。ようやく気がついたテレーズですが、頑なな心はそのままです。けれど男にこう言われるのです。「もっとべつの生活なんてありゃしない!! 今が! ここが! あんたのまわりの人間たちが!! あんたの生活さ!」
それ以後、周りに心を開いていくテレーズ、奉公人仲間ともきちんと交流できるようになっていきます。英語を読めることを知った女主人から、ジェロームの残していった英語の本を読むように命じられるテレーズ、英語のわからない女主人には子守歌代わりだったのですが、眠りの中でジェロームとつぶやきます。
クリスマスのミサに、農園に残されアルフォンスに襲われるテレーズ、ジェロームはテレーズを助けようと銃を取り出そうとするのですが…。「あの女は8年間おまえを待ち続けていたんだからな」とのアルフォンスの言葉を聞き、隙ができて、アルフォンスに撃たれてしまいます。
瀕死のジェロームをみつけたイヴォンヌは、許しを請うジェロームに言います。「やっと 帰ってきて くれたのね それだけで 十分よ!!」
横たわるジェロームを支えるテレーズと、イヴォンヌのほおに手を添えるジェロームの場面でお話は終わります。そこに添えられている言葉は「花園は ひとの心の中に あるのかもしれない……」
『見た日』は、ここで終わっているのですが、テレーズは街に出ることもなくたぶん農園で暮らすのでしょう。
これを書くために『見た日』を読み返してみて、書き始めたときと少し違うことに気づきました。最初のページに弱々しい太陽、と書いたのですが、テレーズの影がくっきりと描かれていました。決して弱い光ではないようなのです。
描かれた順番から考えても、「花園はひとの心の中にある」が作者の言いたいことなのかなあと思ったのです。
しかしそれでも、と思うのです。チルチルとミチルは、青い鳥は自分の家にいると気がつくのですが、それでは、二人の夢の中の旅は無意味だったのかと。
決してそんなことはありません。自分の鳥が青いと気づくのは自分の力で気づく、それが大事なことのように思えるのです。
『見た日』でテレーズが変わったのが、ジェロームに言われたからだけだとしたなら、問題でしょう。ジェロームに言われたことがきっかけになって、自分で考えた結果なら、それでいいのですが。
タイトル『花園を求めて』
書名『水の中の星』
出版社 大都社
昭和53年3月10日初版発行
タイトル『花園を見た日』
プチコミック早春の号
出版社 小学館
昭和53年3月1日発行
『花園を求めて』は1975年ちゃお秋の増刊号、『花園を見た日』は1978年プチコミック早春の号に載ったものです。『花園を見た日』はプチコミックで読みました。これはこの号の特集が「倉多江美の世界」でしたので買ったのです。『花園を求めて』はその後の1978年3月に出版された単行本「水の中の星」で読みました。
『花園を見た日』は単行本には収録されていません。
ページ数ですが、『花園を求めて』は25ページ、『花園を見た日』は48ページです。『花園を求めて』の二倍の長さになった分、『花園を見た日』のほうが細かいところまで描かれています。
それではこのふたつの作品をみていきましょう。以下『花園を求めて』は『求めて』、『花園を見た日』は『見た日』と記すことにします。
表紙の絵はかなり違いますが、それは置いておきます。
まず最初のページですが、両方とも山を見つめる少女のななめ後ろの絵から始まります。『求めて』は山が遠景にありますが、『見た日』では中景になっています。また少女の視線が『求めて』では山の頂を見つめていて少し頭が上を向いているようです。『求めて』では風は少女の前から吹いていますが、『見た日』では後ろから吹いています。
一番大きな違いは、『求めて』では雲間から漏れる、ほのかな光が太陽を暗示しています。一方の『見た日』では黄色い弱々しい太陽が描かれているだけです。この太陽は薄い雲を通して見た太陽のようです、輪郭がぼやけていてかすかな光が漏れているようにしか見えません。これが実は結末を暗示しているのですが、最初に読んだときには少し絵が違うといった程度にしか思いませんでした。
「この冬枯れの 荒涼とした土地の どこに 花園があるだろう ーー?」「聞こえるのは むなしく 荒野を吹きわたる 風の音ばかり」という書き出しで二つのお話は始まります。
『求めて』には、さらに「1840年 フランスの片いなか」とあります。
主な登場人物は主人公の少女テレーズ、農園に新たに雇われた中年の男(ジェローム、『求めて』には名前は出てきません)、主人公が働いている農園の女主人(イヴォンヌ、『求めて』には名前は出てこなくて、二コマだけ姿が描かれています)、女主人の甥だという若いツバメ(アルフォンス、『求めて』には名前は出てきません)の四人です。
テレーズはそれなりの家庭に生まれますが、父が亡くなり、零落していきます。それでも母は平気な顔をしています。なぜ平気なの? と幼いテレーズに問われて、母は答えます。「心の中に 幸せな 思い出を(中略)それはそれは 美しい花園の ようなもの」を持っているからだと。
物語の始まる前の年に母も亡くなり、テレーズは農場で働き出します。
以下、まず『求めて』のあらすじです。
いつも花園を夢見ているテレーズは、周りから孤立しています。若いツバメに乱暴されそうになったところを、中年の男に助けられます。男はテレーズに言います。「なぜ街に行かないんだ?」 それに対してテレーズは答えます。「花園を待っているの」と。
その後の会話で、この男が10年前に妻を残して街に出た、この農園の主だとわかります。しかし、男は「十年前に家を出た男だ」といって名乗り出ようともしません。
クリスマスのミサに、農園に残されたテレーズは、またも若いツバメにおそわれます。このときにも中年の男が農園に残されていて、テレーズを助けようとします。男は銃を取り出すのですが、止めようとするテレーズ、その隙を突いてツバメは男に襲いかかり、男を撃ってしまいます。
瀕死の男は次のように言います。「きみは花園をみつけたろう?(中略)今度は広い世界へ ほんとうの幸せをさがしに行くんだ」
そして、テレーズが街に出るところでお話は終わります。
次いで『見た日』のあらすじです。
出だしはほとんど変わりありません。周りから孤立するテレーズを見て男は思います。「おれは10年かかった"もっとべつの生活"などありはしないということを悟るまで」
寒い地下室に誤って閉じ込められたテレーズは、半死半生で助け出されます。ようやく気がついたテレーズですが、頑なな心はそのままです。けれど男にこう言われるのです。「もっとべつの生活なんてありゃしない!! 今が! ここが! あんたのまわりの人間たちが!! あんたの生活さ!」
それ以後、周りに心を開いていくテレーズ、奉公人仲間ともきちんと交流できるようになっていきます。英語を読めることを知った女主人から、ジェロームの残していった英語の本を読むように命じられるテレーズ、英語のわからない女主人には子守歌代わりだったのですが、眠りの中でジェロームとつぶやきます。
クリスマスのミサに、農園に残されアルフォンスに襲われるテレーズ、ジェロームはテレーズを助けようと銃を取り出そうとするのですが…。「あの女は8年間おまえを待ち続けていたんだからな」とのアルフォンスの言葉を聞き、隙ができて、アルフォンスに撃たれてしまいます。
瀕死のジェロームをみつけたイヴォンヌは、許しを請うジェロームに言います。「やっと 帰ってきて くれたのね それだけで 十分よ!!」
横たわるジェロームを支えるテレーズと、イヴォンヌのほおに手を添えるジェロームの場面でお話は終わります。そこに添えられている言葉は「花園は ひとの心の中に あるのかもしれない……」
『見た日』は、ここで終わっているのですが、テレーズは街に出ることもなくたぶん農園で暮らすのでしょう。
これを書くために『見た日』を読み返してみて、書き始めたときと少し違うことに気づきました。最初のページに弱々しい太陽、と書いたのですが、テレーズの影がくっきりと描かれていました。決して弱い光ではないようなのです。
描かれた順番から考えても、「花園はひとの心の中にある」が作者の言いたいことなのかなあと思ったのです。
しかしそれでも、と思うのです。チルチルとミチルは、青い鳥は自分の家にいると気がつくのですが、それでは、二人の夢の中の旅は無意味だったのかと。
決してそんなことはありません。自分の鳥が青いと気づくのは自分の力で気づく、それが大事なことのように思えるのです。
『見た日』でテレーズが変わったのが、ジェロームに言われたからだけだとしたなら、問題でしょう。ジェロームに言われたことがきっかけになって、自分で考えた結果なら、それでいいのですが。
タイトル『花園を求めて』
書名『水の中の星』
出版社 大都社
昭和53年3月10日初版発行
タイトル『花園を見た日』
プチコミック早春の号
出版社 小学館
昭和53年3月1日発行
2011年1月28日金曜日
川崎苑子の『いちご時代』
川崎苑子は大好きなマンガ家ですが、なにを取り上げたらいいのか悩みます。前回取り上げた柳沢きみおの『月とスッポン』では、最終回をすっかり忘れてしまっていたのですが、今回は印象的な最終回の川崎苑子、『いちご時代』を持ってきてみました。
前作の『ポテト時代』(yonemasu.blogspot.com/2015/05/blog-post_25.html に書きました)の続編として描かれたマンガで、『ポテト時代』では三女のそよ子がヒロインでしたけれど、このマンガは四女の川風ふう子がヒロインです。ふう子の小学校入学の前日から、二年生になった四月まで丸一年のお話です。
三人の姉と父親が家族です。母親は亡くなっています。
以下のページにタイトルとあらすじが載っていました。
http://manpara.sakura.ne.jp/sub-doyobi.htm#top
他人より少しスローな子供のふう子、そよ子さんに言わせると(No.9 いちご狩りの前の日)「トロくたって ぬけてたって」となってしまいます。それなのに No.39 つむぎちゃんは思う では、ほとんどすべてで勝っているはずのつむぎちゃんはこう思うのです。
「あたしはほとんど 勝ってるのにさ 時たま最後の ひとつで負けてる ような気分に なっちゃうのよっ」
それではこれから、印象に残ったお話を取り上げていきます。
まず「No.1 3月の最後の日」です。明日から小学校という日、ふう子は幼稚園にもどりたいと思う。そよ子に言われるままに長い髪を切った後で、「髪の毛 きりたくない」と言い、「母さんと おんなじ髪に もどりたい」と思うのです。
眠らなければ四月はこないのでは、と思いつつ眠ってしまうふう子なのでした。
四月になりいろんな事がありながらも、友だちのつむぎちゃんもでき何とか学校生活を送るのですが……
このつむぎちゃんはなかなかの切れ者なのですが、なぜかトロいふう子と友だちになります。この二人に共通することが出てくるのが、「 No.9 いちご狩りの前の日」です。楽しいことの前には、それを力一杯待ってしまい熱を出してしまうのでした。
肉を食べられなくなったり、女子高生をおばさんと呼んでみたり(別れるときは、おねえちゃんと言っています)といろいろあります。
「No.15 つゆの草」では、「ゆっくりかくのは いけないことなの?」「どうして いつも いそがなくちゃ いけないの?」と先生に尋ねて、答えをもらえませんでした。先生にだって答えはわからなかったのです。
「No.21 真夏の夢から」は高原のペンションにやってきたのはよかったのですが、ひとりほったらかしにされたふう子が、初めて会った少年(?)と丘のぼりをするお話です。「いちばん楽し かった時代に もどりたくて たまらなく なった時 ここの ことも 思いだせる といいね」と、真昼の夢からさめた会社の経営者は、ふう子に言います。
「No. 27 銀のすすきの国」は、町の中では唯一すすきの生えている庭のある家に住んでいる、町一番のお金持ちのおじいさんのお話です。その庭でおじいさんの子どものころの話を聞き、おじいさんと遊ぶふう子とつむぎちゃん、てまりちゃん。最後は、見開きですすきの野原を駆ける少年と、「そちらの 銀のすすきの国は すてきですか?」の問いかけで終わります。
この二つのお話は大人が主人公です。子どもが読んでも面白がるとは思いますが、本当の意味を知るのはもっと大きくなってからでしょう。
「No.40 冬の連想」は、父さんが、雪の朝に思い出す昔のことが描かれています。もしあの日雪が降らなかったなら、自分はどんな人生を歩いていたのだろうかと。この手の話は暗くしようとすればいくらでも暗くなるのですが、それを感傷に留めているのは、終わりのほうに出てくるふう子ではないでしょうか。
「No.24 にげる少女」「No.25 まちがい」は続きになっています。なにかから逃げるふう子、先生の言葉からそれに気づきふう子に「あんたは3つもまちがいをおかしている!」と説教をするそよ子。さて、ふう子はいくらお小遣いをもらえることになったのでしょう。
涙なしに読めなかったのが「No.45 2月の雨」でした。車にはねられて亡くなった女の子のお話です。「即死だったので(中略)あの子の眼にやきついたものは 一面にゆれる 色とりどりの 大好きなアネモネの花だったのに ちがいない」
「No.46 路上にて」「No.47 すこしとおい瞳」自分より小さな子のチョコアイスをとったに違いないと、ふう子を叱るそよ子でしたが…「あの人たちは お母さん じゃない」と泣き続けるふう子。姉たちは「どんな時でも(中略)子どもの味方をする母親とは違う」ことに気づいてしまったふう子でした。そしてそよ子は「妹が 前とはすこし 違った目つきで 自分をみている」のを感じるのでした。
さて、いよいよ最後「No.52 それはパンツではじまった」です。ふう子は、そよ子の不注意で膝小僧に擦り傷を作ってしまいます。田舎の祖父母に会いに行くのに余計な心配はさせられないと、いつものスカートをパンツに替えられてしまいます。それもあってか普段とは違う生き生きとした行動に出るふう子でした。
でも駅に向かう途中でみんなとはぐれてしまいます。うちに帰って待つか、わからないなりに右の道を通って駅に向かうか、少し逡巡するふう子ですが、「冒険にむかう少年のような足どりでふう子は右にむかって走り出した」ところで物語は終わります。
本当の物語はここから始まるのでしょう。新しい冒険に出た後のふう子は本当に変わったのでしょうか? それとも…といろいろなことを考えてしまいます。
終わったぁ、と、本を閉じたそのときから始まる新たな物語、その余韻がいつまでも響くそんなお話です。
書名『いちご時代』1〜3巻
出版社 集英社
1985年 9月30日第一刷発行 1巻
1985年10月30日第一刷発行 2巻
1986年 1月30日第一刷発行 3巻
前作の『ポテト時代』(yonemasu.blogspot.com/2015/05/blog-post_25.html に書きました)の続編として描かれたマンガで、『ポテト時代』では三女のそよ子がヒロインでしたけれど、このマンガは四女の川風ふう子がヒロインです。ふう子の小学校入学の前日から、二年生になった四月まで丸一年のお話です。
三人の姉と父親が家族です。母親は亡くなっています。
以下のページにタイトルとあらすじが載っていました。
http://manpara.sakura.ne.jp/sub-doyobi.htm#top
他人より少しスローな子供のふう子、そよ子さんに言わせると(No.9 いちご狩りの前の日)「トロくたって ぬけてたって」となってしまいます。それなのに No.39 つむぎちゃんは思う では、ほとんどすべてで勝っているはずのつむぎちゃんはこう思うのです。
「あたしはほとんど 勝ってるのにさ 時たま最後の ひとつで負けてる ような気分に なっちゃうのよっ」
それではこれから、印象に残ったお話を取り上げていきます。
まず「No.1 3月の最後の日」です。明日から小学校という日、ふう子は幼稚園にもどりたいと思う。そよ子に言われるままに長い髪を切った後で、「髪の毛 きりたくない」と言い、「母さんと おんなじ髪に もどりたい」と思うのです。
眠らなければ四月はこないのでは、と思いつつ眠ってしまうふう子なのでした。
四月になりいろんな事がありながらも、友だちのつむぎちゃんもでき何とか学校生活を送るのですが……
このつむぎちゃんはなかなかの切れ者なのですが、なぜかトロいふう子と友だちになります。この二人に共通することが出てくるのが、「 No.9 いちご狩りの前の日」です。楽しいことの前には、それを力一杯待ってしまい熱を出してしまうのでした。
肉を食べられなくなったり、女子高生をおばさんと呼んでみたり(別れるときは、おねえちゃんと言っています)といろいろあります。
「No.15 つゆの草」では、「ゆっくりかくのは いけないことなの?」「どうして いつも いそがなくちゃ いけないの?」と先生に尋ねて、答えをもらえませんでした。先生にだって答えはわからなかったのです。
「No.21 真夏の夢から」は高原のペンションにやってきたのはよかったのですが、ひとりほったらかしにされたふう子が、初めて会った少年(?)と丘のぼりをするお話です。「いちばん楽し かった時代に もどりたくて たまらなく なった時 ここの ことも 思いだせる といいね」と、真昼の夢からさめた会社の経営者は、ふう子に言います。
「No. 27 銀のすすきの国」は、町の中では唯一すすきの生えている庭のある家に住んでいる、町一番のお金持ちのおじいさんのお話です。その庭でおじいさんの子どものころの話を聞き、おじいさんと遊ぶふう子とつむぎちゃん、てまりちゃん。最後は、見開きですすきの野原を駆ける少年と、「そちらの 銀のすすきの国は すてきですか?」の問いかけで終わります。
この二つのお話は大人が主人公です。子どもが読んでも面白がるとは思いますが、本当の意味を知るのはもっと大きくなってからでしょう。
「No.40 冬の連想」は、父さんが、雪の朝に思い出す昔のことが描かれています。もしあの日雪が降らなかったなら、自分はどんな人生を歩いていたのだろうかと。この手の話は暗くしようとすればいくらでも暗くなるのですが、それを感傷に留めているのは、終わりのほうに出てくるふう子ではないでしょうか。
「No.24 にげる少女」「No.25 まちがい」は続きになっています。なにかから逃げるふう子、先生の言葉からそれに気づきふう子に「あんたは3つもまちがいをおかしている!」と説教をするそよ子。さて、ふう子はいくらお小遣いをもらえることになったのでしょう。
涙なしに読めなかったのが「No.45 2月の雨」でした。車にはねられて亡くなった女の子のお話です。「即死だったので(中略)あの子の眼にやきついたものは 一面にゆれる 色とりどりの 大好きなアネモネの花だったのに ちがいない」
「No.46 路上にて」「No.47 すこしとおい瞳」自分より小さな子のチョコアイスをとったに違いないと、ふう子を叱るそよ子でしたが…「あの人たちは お母さん じゃない」と泣き続けるふう子。姉たちは「どんな時でも(中略)子どもの味方をする母親とは違う」ことに気づいてしまったふう子でした。そしてそよ子は「妹が 前とはすこし 違った目つきで 自分をみている」のを感じるのでした。
さて、いよいよ最後「No.52 それはパンツではじまった」です。ふう子は、そよ子の不注意で膝小僧に擦り傷を作ってしまいます。田舎の祖父母に会いに行くのに余計な心配はさせられないと、いつものスカートをパンツに替えられてしまいます。それもあってか普段とは違う生き生きとした行動に出るふう子でした。
でも駅に向かう途中でみんなとはぐれてしまいます。うちに帰って待つか、わからないなりに右の道を通って駅に向かうか、少し逡巡するふう子ですが、「冒険にむかう少年のような足どりでふう子は右にむかって走り出した」ところで物語は終わります。
本当の物語はここから始まるのでしょう。新しい冒険に出た後のふう子は本当に変わったのでしょうか? それとも…といろいろなことを考えてしまいます。
終わったぁ、と、本を閉じたそのときから始まる新たな物語、その余韻がいつまでも響くそんなお話です。
書名『いちご時代』1〜3巻
出版社 集英社
1985年 9月30日第一刷発行 1巻
1985年10月30日第一刷発行 2巻
1986年 1月30日第一刷発行 3巻
2011年1月19日水曜日
柳沢きみおの『月とスッポン』
このマンガは1976年半ばから1982年初めまで5年半にわたって週刊少年チャンピオンに連載されたマンガです。この頃は少年チャンピオンの全盛期で以下のマンガが載っていました。水島新司の『ドカベン』、山上たつひこの『がきデカ』、手塚治虫の『ブラックジャック』、石井いさみの『750ライダー』、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』などです。このコーナーでは萩尾望都を取り上げるのがふさわしいのかもしれませんが、ここでは柳沢きみおを取り上げます。
手塚治虫が、少年マンガの手法を少女マンガに取り入れ成功を収めたのは『リボンの騎士』でした。「少女クラブ」版が昭和28年(1953年)1月号から昭和31年(1956年)1月号まででした。このことについては、手塚自身が講談社の「手塚治虫漫画全集」MT86のあとがきに「これは断言できますが、この「少女クラブ」にのった「リボンの騎士」は、日本のストーリー少女漫画の第一号です。」と書いてあります。
手塚による「なかよし」版は1963年1月号から1966年10月号まででした。
では、逆に少年マンガに少女マンガの手法を取り入れたのは誰で、何というマンガだったのでしょうか。
それは柳沢きみおで、『月とスッポン』だと言われています。確かに始まりはギャグマンガでした。でもいつの間にかラブコメへと変化していくのです。花岡世界と土田新一、それを取り巻くクラスメイト、親、弟が繰り広げる人間模様が受け入れられたのでしょう、ずいぶんと長い連載でした。
同じ頃(1974年秋から1980年いっぱい)に連載されていた『がきデカ』は、登場人物は年をとりませんでしたが、このマンガの登場人物はちゃんと年齢を重ねていきます。連載のあいだに新一と世界は中学生から高校生になります。
連載途中のことはわりと覚えていたのですが、最終回は全然覚えていませんでした。
最終回の前の話で、それまでは転勤はいつも土田(父)と花岡(父)が同じところで社宅も隣同士だったのですが、このときは花岡だけが転勤になってしまいます。最終回では、悩んだ末に世界と一緒に引っ越すことに新一は決めるのでした。
出発の日、誰にも告げず立ったふたり(と、たぶん登場はしてないけれど、世界の父親もいるのだろうなぁと思いますが)を思う藤波のコマでマンガは終わっています。
柳沢きみおは『翔んだカップル』を1978年春から、『朱に赤』を1981年から連載しています。これらのマンガは読んだはずなのですが、全然覚えていません。『翔んだカップル』で唯一記憶しているのは、不動産屋が名前だけで山葉圭を男と思い、圭が主人公と同じ屋根の下で暮らすことになるシーンだけです。
少女マンガの手法を取り入れた少年マンガで柳沢きみお以上に人気を得たのは、柳沢きみおのアシスタントをしていた村生ミオとのことですが、この人のマンガは残念なことに読んだことがありません。
書名『月とスッポン』
出版社 秋田書店
昭和52年1月20日(1巻)〜昭和57年4月10日(23巻)初版発行
手塚治虫が、少年マンガの手法を少女マンガに取り入れ成功を収めたのは『リボンの騎士』でした。「少女クラブ」版が昭和28年(1953年)1月号から昭和31年(1956年)1月号まででした。このことについては、手塚自身が講談社の「手塚治虫漫画全集」MT86のあとがきに「これは断言できますが、この「少女クラブ」にのった「リボンの騎士」は、日本のストーリー少女漫画の第一号です。」と書いてあります。
手塚による「なかよし」版は1963年1月号から1966年10月号まででした。
では、逆に少年マンガに少女マンガの手法を取り入れたのは誰で、何というマンガだったのでしょうか。
それは柳沢きみおで、『月とスッポン』だと言われています。確かに始まりはギャグマンガでした。でもいつの間にかラブコメへと変化していくのです。花岡世界と土田新一、それを取り巻くクラスメイト、親、弟が繰り広げる人間模様が受け入れられたのでしょう、ずいぶんと長い連載でした。
同じ頃(1974年秋から1980年いっぱい)に連載されていた『がきデカ』は、登場人物は年をとりませんでしたが、このマンガの登場人物はちゃんと年齢を重ねていきます。連載のあいだに新一と世界は中学生から高校生になります。
連載途中のことはわりと覚えていたのですが、最終回は全然覚えていませんでした。
最終回の前の話で、それまでは転勤はいつも土田(父)と花岡(父)が同じところで社宅も隣同士だったのですが、このときは花岡だけが転勤になってしまいます。最終回では、悩んだ末に世界と一緒に引っ越すことに新一は決めるのでした。
出発の日、誰にも告げず立ったふたり(と、たぶん登場はしてないけれど、世界の父親もいるのだろうなぁと思いますが)を思う藤波のコマでマンガは終わっています。
柳沢きみおは『翔んだカップル』を1978年春から、『朱に赤』を1981年から連載しています。これらのマンガは読んだはずなのですが、全然覚えていません。『翔んだカップル』で唯一記憶しているのは、不動産屋が名前だけで山葉圭を男と思い、圭が主人公と同じ屋根の下で暮らすことになるシーンだけです。
少女マンガの手法を取り入れた少年マンガで柳沢きみお以上に人気を得たのは、柳沢きみおのアシスタントをしていた村生ミオとのことですが、この人のマンガは残念なことに読んだことがありません。
書名『月とスッポン』
出版社 秋田書店
昭和52年1月20日(1巻)〜昭和57年4月10日(23巻)初版発行
2011年1月8日土曜日
ちょっと休憩 カナダ映画『ソナチネ』
カナダ映画と知らずに観ていて、最初はフランス映画かと思ってしまいました。途中で気づきましたが。
思春期のふたりの女の子のお話です。
ストーリーについてはネット上にいろいろ書かれていますので割愛します。
終わりのほうで次のように書いたプラカードを持ってふたりは地下鉄に乗り込みます。
「誰かが止めない限り、わたしたちは自殺します」
でも、薬を飲んで眠るふたりを車内に残し、ストライキに突入した職員たちは持ち場を離れます。車内のふたりを撮して映画は終わります(だったような気がするんですが、20年以上も前に観たので記憶が曖昧です、すみません)。
ネットの映画評に、ウォークマンに触れているものがあります。しかしそれは単なる道具としてしか触れられていないようです。けれど、ウォークマンとプラカードが象徴するものがこの映画の要のように思えるのです。
すなわち、アンビヴァレントな少女の心の象徴としてウォークマンとプラカードが出ていると思ったのです。内向的なものを表すウォークマンと、それでも外界とのつながりを持ちたいとの表れのプラカード。
でも、少女たちはプラカードを持っているだけ、しっかりとイアフォンをして、自分からは外に向かって話しかけようとはしない……。
それから20年、街をゆく人たちはかなりの人が iPhone などを当然のように聴いています。映画が作られ公開されたのはウォークマン発売から5年後、まだウォークマンに意味があったように思えるのですが……。
制作年 1984年
公開年 1986年11月
思春期のふたりの女の子のお話です。
ストーリーについてはネット上にいろいろ書かれていますので割愛します。
終わりのほうで次のように書いたプラカードを持ってふたりは地下鉄に乗り込みます。
「誰かが止めない限り、わたしたちは自殺します」
でも、薬を飲んで眠るふたりを車内に残し、ストライキに突入した職員たちは持ち場を離れます。車内のふたりを撮して映画は終わります(だったような気がするんですが、20年以上も前に観たので記憶が曖昧です、すみません)。
ネットの映画評に、ウォークマンに触れているものがあります。しかしそれは単なる道具としてしか触れられていないようです。けれど、ウォークマンとプラカードが象徴するものがこの映画の要のように思えるのです。
すなわち、アンビヴァレントな少女の心の象徴としてウォークマンとプラカードが出ていると思ったのです。内向的なものを表すウォークマンと、それでも外界とのつながりを持ちたいとの表れのプラカード。
でも、少女たちはプラカードを持っているだけ、しっかりとイアフォンをして、自分からは外に向かって話しかけようとはしない……。
それから20年、街をゆく人たちはかなりの人が iPhone などを当然のように聴いています。映画が作られ公開されたのはウォークマン発売から5年後、まだウォークマンに意味があったように思えるのですが……。
制作年 1984年
公開年 1986年11月
2011年1月6日木曜日
曽祢まさこの『わたしが死んだ夜』
サイコドラマとしては傑作の一つだと思います。たった100ページなのに長編を見せられたようなそんなマンガです。
ストーリーは双子の姉妹の物語なのですが、どちらも勝ち気で互いに相手を憎み合っているというものです。あらすじは以下のページに詳しく載っていました。
http://malon.my.land.to/watasigasindayoru.htm
これはまたずいぶん詳しくて、あらすじというよりほとんどそのままのストーリーでした。これに7ページの「女の子だねえ 鏡にしっと してるんだよ」とのおばあさまの一言が入れば完璧でしょう。
曽祢まさこの作品を見たのはこれが最初でした。カヴァー絵は少女マンガそのものでしたがタイトルに惹かれて買ったのでした。で、ぐいぐいと引きずり込まれたのでした。
読後感は、面白いけど怖いでした。なぜ怖いと思ったのかを考えてみると…
心の闇を突きつけられたからが大きいのでしょう。双子の姉妹の心の動きを見せられて、自分ならどうするかを考えると、いいえ、考えられないというか、考えることを拒否するような気持ちになるのです、双子の片割れでなくてよかったというような。
「あなたはきょうから死んだもおなじ (中略) 少女がそのことばで葬ったのはかの女自身の心だった……」と終わる物語。
でも、それだけにこのマンガは魅力的なのです。ストーリーテラーとして最上の部類に入る人ではないのかと。
さて、このマンガが描かれてから30年以上経ちました。その後、エバは、「事実を認めて強くなって(中略)クレアの分までしあわせをつかまなくては」とエドウィンに言われたように幸せを掴んだのでしょうか、クレアはまだエバのままなのでしょうか、気になるところです。
なお、同時収録の『緋色のマドモアゼル』も面白い作品でした。
曽祢まさこの、このマンガを最初に読んだのは幸いでした。もし、『妖精旅行』を読んでいたら、このマンガも、『幽霊がり』も『不思議の国の千一夜』も読まなかったでしょうから。
書名『わたしが死んだ夜』
出版社 講談社
昭和54年11月5日第1刷発行
ストーリーは双子の姉妹の物語なのですが、どちらも勝ち気で互いに相手を憎み合っているというものです。あらすじは以下のページに詳しく載っていました。
http://malon.my.land.to/watasigasindayoru.htm
これはまたずいぶん詳しくて、あらすじというよりほとんどそのままのストーリーでした。これに7ページの「女の子だねえ 鏡にしっと してるんだよ」とのおばあさまの一言が入れば完璧でしょう。
曽祢まさこの作品を見たのはこれが最初でした。カヴァー絵は少女マンガそのものでしたがタイトルに惹かれて買ったのでした。で、ぐいぐいと引きずり込まれたのでした。
読後感は、面白いけど怖いでした。なぜ怖いと思ったのかを考えてみると…
心の闇を突きつけられたからが大きいのでしょう。双子の姉妹の心の動きを見せられて、自分ならどうするかを考えると、いいえ、考えられないというか、考えることを拒否するような気持ちになるのです、双子の片割れでなくてよかったというような。
「あなたはきょうから死んだもおなじ (中略) 少女がそのことばで葬ったのはかの女自身の心だった……」と終わる物語。
でも、それだけにこのマンガは魅力的なのです。ストーリーテラーとして最上の部類に入る人ではないのかと。
さて、このマンガが描かれてから30年以上経ちました。その後、エバは、「事実を認めて強くなって(中略)クレアの分までしあわせをつかまなくては」とエドウィンに言われたように幸せを掴んだのでしょうか、クレアはまだエバのままなのでしょうか、気になるところです。
なお、同時収録の『緋色のマドモアゼル』も面白い作品でした。
曽祢まさこの、このマンガを最初に読んだのは幸いでした。もし、『妖精旅行』を読んでいたら、このマンガも、『幽霊がり』も『不思議の国の千一夜』も読まなかったでしょうから。
書名『わたしが死んだ夜』
出版社 講談社
昭和54年11月5日第1刷発行
2010年12月28日火曜日
すえつぐなおとの『ゆるして!!ねえちゃん』
このマンガは表紙を見て、ギャグマンガも悪くはないかなぁと買ったものです。タイトルもそれらしいし、と。
一話目と二話目以降では登場人物の顔が違います。二話以降の方が安心してみられます。一話ではどこかで見たような顔なのですが、二話からは個性的な顔になっています。でも絵のことはよくわからないのでこれくらいにします。
ギャグマンガには珍しく時間は普通に流れます。最後にはモモねえちゃんは高校生になって終わっています。はじめは確かにギャグマンガなのです。笑いあり、たまには涙(?)あり、そしてボクちゃんがモモねえちゃんに一矢報いるシーンありなのです。
たとえば、「ひとの虫歯は痛くない!」では、虫歯になったボクちゃんを歯医者に連れて行くモモが、なんとか歯医者にボクちゃんの歯の治療をさせて、うちに帰ってきます、そして今日のおやつはせんべいだといっておやつを独り占め、じつはマシュマロだったとのオチ。
また、「ボクちゃん、殊勲賞!」では、野球をやっているところにきたモモが、無理矢理バッターになり三振してももう一度打たせろと無理を言います、ピッチャーを引き受けたボクちゃんが、みごと一球でモモをのばして仲間から胴上げされるのです。
ところが、モモが中学三年生になったところからマンガががらりと変わるのです。ところどころギャグは残っているものの恋愛マンガになるのです、それもほのぼの恋愛マンガに。可愛くんという同級生が登場して、モモの恋人になり、高校一年の夏休みでマンガは終わります。
もちろんギャグはちゃんと残っています。「ジョギングできたえよう!」「ふたりの写真撮って!」はギャグマンガです。でも、それは薬味のようなものでしかないように思えるのです。えっ、このふたつは連続して載ってるよ、というのは置いておいてください。
ギャグマンガで始まったのにシリアスマンガで終わるというのは珍しくないことです。たとえば、ここで例に挙げるとたたかれそうですが、『めぞん一刻』は始まりはどう見てもギャグマンガではないでしょうか。
なるほどこんなマンガもあるのか、悪くはないなあと思ったのですが、すえつぐなおとはこの一作で消えてしまいます。そんなに評判がよかったわけではなさそうでした。
でも、なにが幸いするかわからないものですねえ、ここで少女マンガ家として成功していたら、のちに流行語にまでなった『オバタリアン』にお目にかかることはなかったわけですから。
書名 『ゆるして!!ねえちゃん』
出版社 創美社
1980年11月30日第1刷発行
(参考)
オバタリアン 竹書房 昭和63年7月20日初版発行
一話目と二話目以降では登場人物の顔が違います。二話以降の方が安心してみられます。一話ではどこかで見たような顔なのですが、二話からは個性的な顔になっています。でも絵のことはよくわからないのでこれくらいにします。
ギャグマンガには珍しく時間は普通に流れます。最後にはモモねえちゃんは高校生になって終わっています。はじめは確かにギャグマンガなのです。笑いあり、たまには涙(?)あり、そしてボクちゃんがモモねえちゃんに一矢報いるシーンありなのです。
たとえば、「ひとの虫歯は痛くない!」では、虫歯になったボクちゃんを歯医者に連れて行くモモが、なんとか歯医者にボクちゃんの歯の治療をさせて、うちに帰ってきます、そして今日のおやつはせんべいだといっておやつを独り占め、じつはマシュマロだったとのオチ。
また、「ボクちゃん、殊勲賞!」では、野球をやっているところにきたモモが、無理矢理バッターになり三振してももう一度打たせろと無理を言います、ピッチャーを引き受けたボクちゃんが、みごと一球でモモをのばして仲間から胴上げされるのです。
ところが、モモが中学三年生になったところからマンガががらりと変わるのです。ところどころギャグは残っているものの恋愛マンガになるのです、それもほのぼの恋愛マンガに。可愛くんという同級生が登場して、モモの恋人になり、高校一年の夏休みでマンガは終わります。
もちろんギャグはちゃんと残っています。「ジョギングできたえよう!」「ふたりの写真撮って!」はギャグマンガです。でも、それは薬味のようなものでしかないように思えるのです。えっ、このふたつは連続して載ってるよ、というのは置いておいてください。
ギャグマンガで始まったのにシリアスマンガで終わるというのは珍しくないことです。たとえば、ここで例に挙げるとたたかれそうですが、『めぞん一刻』は始まりはどう見てもギャグマンガではないでしょうか。
なるほどこんなマンガもあるのか、悪くはないなあと思ったのですが、すえつぐなおとはこの一作で消えてしまいます。そんなに評判がよかったわけではなさそうでした。
でも、なにが幸いするかわからないものですねえ、ここで少女マンガ家として成功していたら、のちに流行語にまでなった『オバタリアン』にお目にかかることはなかったわけですから。
書名 『ゆるして!!ねえちゃん』
出版社 創美社
1980年11月30日第1刷発行
(参考)
オバタリアン 竹書房 昭和63年7月20日初版発行
2010年12月13日月曜日
竹宮恵子の『ジルベスターの星から』
このマンガについてはネットで検索するといろいろなマンガ評が出てきます。屋上屋を架すことになりますが、それでもこの作品は、はずすことができません。
遠い未来、人類はワープ航法を知り、三万光年離れたトルメリウスCD五太陽系第七惑星ジルベスターにも植民をします。そのジルベスターからテレパシー映像で主人公トニオに語りかけてくるジル。
ジルに、『地球(テラ)は今美しい?』と訊かれてぎくっとする主人公。さらに『空は!? 空は見える!?』と訊かれて『ここは地下都市だもん』と答えざるを得ないトニオ。
紆余曲折がありながら、宇宙飛行士になり、すぐにもジルベスターに飛んでいきたいトニオ。しかし美しく若い女性科学者ヴェガの説得で天王星への調査に向かいますが、数ヶ月後にジルベスターへの移民が失敗したとの知らせが入ります。
それから二年後、すべてから手を引き単身ジルベスターに向かうトニオ。そこに待っていたのは、枯渇しきった灰色の大地…、そして現れたジルの幻影は、緑ではないジルベスターの現実を知り、消え去ります。
そのあとコンピューターから吐き出されたジルの日記を読み、ジルの真実、心情を知るのです。そして白いプラネット合金の墓碑に刻まれたリルケの詩
『だれがわたしにいえるだろう
わたしのいのちが
どこへまで届くかを?』
これで話が終わっても何の不思議もないのですが、でもジルベスターの荒廃したありさまだけではこれほど印象に残らなかったはずです。このマンガが見るものを引きつけてやまないのは、最後の一ページがあるからではないでしょうか。
最後のページでヴェガは三万光年を超えてジルのもとへと向かってくるのです! ジルベスターの現実を知りながら、いいえ、知っているからこそ来るのです。『わたしは、なん人なん人も、あなたにジルを、あげようと、決心しました (中略) ひとりがだめなら、そのつぎのジルを たくさん、たくさん、ジルの兄弟を、つくりましょう……』
実はこの最後の一ページを描きたくてこの物語を作ったのではないのか、それほど衝撃的でした。この最後のページは男には描けないのではないかと思わされたものでした。
書名 『ジルベスターの星から』
出版社 朝日ソノラマ
昭和51年6月30日初版発行
マンガ少年別冊 地球へ… 第一部総集編(昭和52年9月1日発行) 171ページ以降にもあります
(蛇足)
さて、このマンガでは男が他の星に行ってしまったのを女が後を追うという構図になっています。それから26年経って、『ふたつのスピカ』では、男女問わず宇宙に出ようとします。そして『ほしのこえ』では地球に残るのが男になるのです。
遠い未来、人類はワープ航法を知り、三万光年離れたトルメリウスCD五太陽系第七惑星ジルベスターにも植民をします。そのジルベスターからテレパシー映像で主人公トニオに語りかけてくるジル。
ジルに、『地球(テラ)は今美しい?』と訊かれてぎくっとする主人公。さらに『空は!? 空は見える!?』と訊かれて『ここは地下都市だもん』と答えざるを得ないトニオ。
紆余曲折がありながら、宇宙飛行士になり、すぐにもジルベスターに飛んでいきたいトニオ。しかし美しく若い女性科学者ヴェガの説得で天王星への調査に向かいますが、数ヶ月後にジルベスターへの移民が失敗したとの知らせが入ります。
それから二年後、すべてから手を引き単身ジルベスターに向かうトニオ。そこに待っていたのは、枯渇しきった灰色の大地…、そして現れたジルの幻影は、緑ではないジルベスターの現実を知り、消え去ります。
そのあとコンピューターから吐き出されたジルの日記を読み、ジルの真実、心情を知るのです。そして白いプラネット合金の墓碑に刻まれたリルケの詩
『だれがわたしにいえるだろう
わたしのいのちが
どこへまで届くかを?』
これで話が終わっても何の不思議もないのですが、でもジルベスターの荒廃したありさまだけではこれほど印象に残らなかったはずです。このマンガが見るものを引きつけてやまないのは、最後の一ページがあるからではないでしょうか。
最後のページでヴェガは三万光年を超えてジルのもとへと向かってくるのです! ジルベスターの現実を知りながら、いいえ、知っているからこそ来るのです。『わたしは、なん人なん人も、あなたにジルを、あげようと、決心しました (中略) ひとりがだめなら、そのつぎのジルを たくさん、たくさん、ジルの兄弟を、つくりましょう……』
実はこの最後の一ページを描きたくてこの物語を作ったのではないのか、それほど衝撃的でした。この最後のページは男には描けないのではないかと思わされたものでした。
書名 『ジルベスターの星から』
出版社 朝日ソノラマ
昭和51年6月30日初版発行
マンガ少年別冊 地球へ… 第一部総集編(昭和52年9月1日発行) 171ページ以降にもあります
(蛇足)
さて、このマンガでは男が他の星に行ってしまったのを女が後を追うという構図になっています。それから26年経って、『ふたつのスピカ』では、男女問わず宇宙に出ようとします。そして『ほしのこえ』では地球に残るのが男になるのです。
2010年12月7日火曜日
やぶうち優の『水色時代』
『「青春」というにはまだ早い、青に染まる途中ということで「水色」のとき』という出だしで始まる『水色時代』、小学校編が三話、中学校編が32話からなる比較的長い物語。
第一話を読んだときに、女の子の物語だからこんな始まり方なのかなあと思いました。これがメインのお話はどこかで読んだなあと思い、ちょっと考えました。吉田としの『あした真奈は』でした(1963年に少女フレンドに連載された読み物で同年に東都書房から、1977年に朝日ソノラマから文庫で出ていました。ネットは便利ですね、いつ出た本かがすぐにわかりますから)。少女フレンドに載ったときには問題作として話題になったようです。
それから30年近くたち、似たようなテーマもどうということもなくなったようです。けれど、この第一話があったからこの長い物語を読もうという気になったのです。でも、このブログを書くために引っ張り出してみたら、みごとに中学時代のことが記憶から抜けていたのでした。それだけ印象に残る始まり方だったようです。
ということで、本当に申し訳ないのですが、もう一度時間を見つけて読み返してから改めて書こうと思います。
書名 『水色時代』第一巻
出版社 小学館
1991年12月20日初版発行
第一話を読んだときに、女の子の物語だからこんな始まり方なのかなあと思いました。これがメインのお話はどこかで読んだなあと思い、ちょっと考えました。吉田としの『あした真奈は』でした(1963年に少女フレンドに連載された読み物で同年に東都書房から、1977年に朝日ソノラマから文庫で出ていました。ネットは便利ですね、いつ出た本かがすぐにわかりますから)。少女フレンドに載ったときには問題作として話題になったようです。
それから30年近くたち、似たようなテーマもどうということもなくなったようです。けれど、この第一話があったからこの長い物語を読もうという気になったのです。でも、このブログを書くために引っ張り出してみたら、みごとに中学時代のことが記憶から抜けていたのでした。それだけ印象に残る始まり方だったようです。
ということで、本当に申し訳ないのですが、もう一度時間を見つけて読み返してから改めて書こうと思います。
書名 『水色時代』第一巻
出版社 小学館
1991年12月20日初版発行
2010年12月5日日曜日
最初は伊東愛子の『たんたんたかゆき』
今の少女マンガを見慣れた人が見たら、つまらないと思うかもしれないけど、味わい深いマンガだと思います。
三歳の甥っ子の日常を描いたマンガで、事件が起こることもない、どこにでもある一コマ一コマ、もちろんそれだけではマンガになりません。その甥を眺める作者の心理が実によいのです。
『大人が子供と同じエネルギーで走りまわったら死んでしまうそうだよ』と母親からいわれより大きなこたえに気づく著者。
それは『おとなになったなら…』『からだでは走れなくなるけれど』『よりたしかな未来へと夢を追って』『心で走るようになる』ということでした。
これを読んだときの驚き、それはまだ若かったころは、心で走るのは若さの特権だと思っていたのが、こんなにも見事にひっくり返されたことによるものでした。
それからだいぶすぎて、旧ソ連の女流画家(名前を忘れてしまいました)の展覧会が県立美術館であったときに観に行ったのですが、若いころの絵は暗いのが多かったのだけど、晩年の絵を観てあっと思いました。明るい絵だったのです、まさに未来を見るような。
そのときこのマンガを思い出したのです。そうか、こういう事なのかと。
このマンガは昭和51年1月号に掲載されていますので、マンガに出てくるオイルショックは1973年のものですね、トイレットペーパーが店先から消えたという。
書名『たんたんたかゆき』
出版社 朝日ソノラマ
昭和54年3月5日初版発行
三歳の甥っ子の日常を描いたマンガで、事件が起こることもない、どこにでもある一コマ一コマ、もちろんそれだけではマンガになりません。その甥を眺める作者の心理が実によいのです。
『大人が子供と同じエネルギーで走りまわったら死んでしまうそうだよ』と母親からいわれより大きなこたえに気づく著者。
それは『おとなになったなら…』『からだでは走れなくなるけれど』『よりたしかな未来へと夢を追って』『心で走るようになる』ということでした。
これを読んだときの驚き、それはまだ若かったころは、心で走るのは若さの特権だと思っていたのが、こんなにも見事にひっくり返されたことによるものでした。
それからだいぶすぎて、旧ソ連の女流画家(名前を忘れてしまいました)の展覧会が県立美術館であったときに観に行ったのですが、若いころの絵は暗いのが多かったのだけど、晩年の絵を観てあっと思いました。明るい絵だったのです、まさに未来を見るような。
そのときこのマンガを思い出したのです。そうか、こういう事なのかと。
このマンガは昭和51年1月号に掲載されていますので、マンガに出てくるオイルショックは1973年のものですね、トイレットペーパーが店先から消えたという。
書名『たんたんたかゆき』
出版社 朝日ソノラマ
昭和54年3月5日初版発行
はじめまして
'70年代から '90年代にかけての印象に残っているマンガについて少し書いてみたくこのようなタイトルにしました。おもに '80年代になるかとは思いますが。
'70年代といえば少女マンガでは花の24年組が頭角を現した時期であり、少年マンガでは週刊少年ジャンプやチャンピオンが一時代を築いたように記憶しています。
でも、リアルタイムで見ていたマンガは多くはなくてサンリオの『リリカ』と小学館で出していた『プチフラワー』ぐらいでした。それ以外は単行本になってから見ていました。そのマンガもずいぶんと偏りがあり、とても(少女)マンガファンと呼べるようなものではありませんでした。それでもあの頃のマンガを思い出すとなんとなくほっとするのです。
萩尾望都の『ポーの一族』に引き込まれ、山岸凉子の『アラベスク』『日出処の天子』にどきどきしたものです。また、樹村みのりの『菜の花畑』シリーズにも心惹かれました。残念なことにいわゆるロマコメは見ていません、くらもちふさこや岩館真理子は名前しか知りませんでした。
そんなとてもマンガファンともいえないのですが、心に残っているマンガについてあれこれ書いていきたいと思っています。
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