2020年12月5日土曜日

飛鳥幸子の『怪盗こうもり男爵』

  昨年、「決定版!怪盗こうもり男爵」が出版されました。「怪盗こうもり男爵」は1979年に発行された旧版が手元にあります。決定版と旧版を比較しながら見ていきます。決定版には「怪盗こうもり男爵」第1話から第4話(1967年)、「Dr. アシモフの華麗な冒険」第1話から第3話(1969年〜1970年)、そして「怪盗紳士 アシモフ教授の華麗な冒険」第1話から第4話(1973年)が入っています。旧版には「怪盗こうもり男爵」と「Dr. アシモフの華麗な冒険」が入っていますが、「Dr. アシモフの華麗な冒険」のタイトルは無くて「怪盗こうもり男爵」で第1話から第7話までになっています。アイザック・アシモフ教授、新聞記者のベティ、私立探偵のハニーそしてベティのおじのハウス警視の四人は全てに登場します。

 お話はコメディータッチで始まりますが、なかなかに重い話になったりもします。第1話でラジウムが出てくる場面では、東日本大震災の時の渋谷での騒動を思い出しました。第2話には、O=ハナ=ハーンという名前が出ていますが、前年(1966年)のNHK朝のテレビ小説「おはなはん」は随分評判になっています。この名前は別の作者のマンガにも出てきています。第3話ではアシモフは殺されかけます。この時に犯人を突き止めるのはベティとハニーです。

 この第3話は決定版と旧版では犯人のエールが病院に行ってから結末までが大きく違っています。決定版では短剣でアイザックにトドメを刺そうとするエール(1ページ目)、間に合ってエールを拳銃で撃つベティ(2ページ目)、そして意識を取り戻すアイザック(3ページ目)と三ページです。この短剣はロシヤ貴族のアシモフの父親の物で、エール達はこれでアシモフの父親を殺しています。旧版では短剣は出てきません。犯人が病院に行って、アイザックに拳銃の引き金を引こうとするまでに四ページ、ベティが拳銃を撃つのに一ページ、意識を取り戻すアイザックに二ページです。物語としては短剣の方が良く出来ています。それにしては展開が急すぎるように思えるのです。せめてあと1〜2ページ説明が欲しいところです。三十二ページではしかたがないのかなぁとも。でも旧版では三十六ページなのは何故なのかなぁ。ロシヤ革命(1917年)の時にはまだ子供だったアイザック、それが1926年には教授とは、さらにはノーベル賞の各賞の候補になるとは大したものです。

 アイザックの出自や背景をこれほどまでに描けるとは、感心するばかりです。舞台はロンドンですが、革命後九年しか経っていないロシアの事情を取り入れています。ロシアの内戦は1920年にはほぼ終わっているようです。なお表記が旧版ではロシア、決定版ではロシヤになっていますが、連載はロシヤのようです。

 第4話はコメディーです。

 「Dr. アシモフの華麗な冒険」では、第1話にパリ警察のマグレ警部なる人物が出てきますが、勿論シムノンの推理小説に登場するメグレ警部のもじりでしょう。第2話ではアシモフは上院選挙に立候補して当選しています。もっとも、イギリスの上院は選挙で選ばれないようなのですが。第3話にはピンキーとキラーズカンパニーなる殺人請負会社が出てきます。ピンキーとキラーズのデビューは1968年ですので、おはなはんといいその頃の流行を取り入れています。

 「怪盗紳士 アシモフ教授の華麗な冒険」は「Dr. アシモフの華麗な冒険」の三年後に描かれた作品で、絵柄が前作とは違っています。前二作とは別の物語と云っていいでしょう。起承転結がありこれだけで独立した物語になっていて、190ページほどです。

 旧版の後書きは竹宮恵子が書いているのですが、飛鳥幸子は昭和24年生まれです。手に入れた時に読んだはずでしたが、失念していました。花の24年組だったのです(早生まれなので正確には違うかもしれません)。ただしデビューが早かったために私の中ではもっと上かと思っていたのです。三十歳を過ぎてからイラストレーターになったようです。山田ミネコや樹村みのりもデビューは早かったのですが飛鳥幸子と違って筆を折ることはなかったのです。


書名『怪盗こうもり男爵』PAPER MOON COMICS

出版社 新書館

1979年8月10日初版発行


書名『決定版!怪盗こうもり男爵』

出版社 立東舎

2019年9月12日 第1版1刷発行


 11年目になりました。この一年はほとんど更新ができていません。次の一年はもう少し頑張らなければと思っています。言い訳にもなりませんが、9月ごろから十数年前の iMac ではアップローダーにアクセスできなかったものですから。

2020年11月19日木曜日

むんこの『だから美代子です』

 今回は、少し新しめの四齣マンガです。

結婚後数年で夫を亡くした未亡人が主人公ですが、これはギャグマンガです、多分。最初の「てんやわんや」の一番目の齣に夫の遺影があります。ページをめくると、義父母と暮らすことになる美代子さんが描かれていま す。第1話の最後の四齣「毎日みょー子」に隣の林田さんの奥さんが出てき ます。

第6話の「たけなわ」には、「夫の遺言 墓参りには一発芸」が出てきます。美代子は手品を披露しています。第8話では定食屋でアルバイトを始める美代子が描かれています。第10話の「語らい」はしんみりとします。第11話の「脱兎3」は、四齣目で、父母と美代子の三人が走って逃げ出すというもので、脱兎のごとく三人が逃げ出すのでこのタイトルかと思ったのですが、もうひとつ、ダットサンも懸けてあるのかなぁとも。

義母は驚くほどに多芸多才です。バレエもバレーも上手ですし、第19話では秋の虫の鳴き真似をしたり、第25話では町内カラオケ大会で三位になっています。第38話では感動巨編マンガさえ描いています。

三巻第35話で夫になる人の名字、浅井田が出てきます。第36話には夫と美代子の二人の思い出が語られてます。第45話七五三の話の中で美代子の歳が37で、三歳と七歳が女の子のお祝いだからと云われています。第49話で林田さんのところに赤ちゃんが生まれます。

四巻第52話には林田さんの赤ちゃん波平の様子が描かれています。第53話では夢の中のダーリンと一緒の美代子が描かれています。第61話ではダーリンが波平の前に現れて、波平といろいろなことをしています。第63話で保育園と思っていた場所が育児院と出てきます。第64話で終わりと思ったら、続きがあります。普通の四齣マンガなら「こんな毎日がずっと続いてほしいです」で終わりだと思うのですが、そうではありませんでした。

第65話は波平の眼から見た光景として描かれています。浅井田邸の取り壊しが始まったのを見ている17歳の波平から話が始まります。美代子は子供達の施設「子馬の家」で暮らしています。いつとはありませんが、美代子の義父が亡くなり、翌年には義母もなくなっています。その時に手筒花火を打ち上げる美代子です。そんなぶっ飛んだところが好きですという波平ですが、定食屋の夫婦から「ご両親が息子さんの所に行けるのを一緒に喜んであげたんでしょ」と言われます。同じようなことを両親からも言われ、波平の中で恋心から目標に変わっていく美代子です。

「そして波平です」と「百代」の間にどのくらいの時間が流れているのかわかりませんが、「花でいっぱいの柩の中みょー子さんはえがおだった」で第65話は終わります。

最終話は思い出なのかと読んでいて、「一足お先」で、あの世のお話と気づきました。

後書きで「幸せとは何ぞや?」と考えていました、とあります。

このマンガでは平凡な日常の続くことが幸せなのだろうなぁと。日常の中で幸せを見つけると云うか、日常そのものが幸せなのかなぁと。最終話を読んでその思いを強くしました。この世と同じ日々が続いているのですから。

嫁と舅、姑の三人で暮らしていて仲が良いとは、マンガとはいえ素晴らしいことです。これこそが幸せではと思わざるを得ません。

安心して読めるのは、このマンガには悪人が出てこないことがあるので しょう。

このマンガの舞台は花丸町です。作者の他のマンガのキャラクターも出ています。 

マンガのタイトルは「みょー子さん」と呼ばれて、「美代子です」と訂正する美代子から付けられています。途中からは一々訂正していませんが。最終話では一度訂正しています。

このマンガは第64話で終わっていても良かったはずですが、それでは私がこのような雑文を書く気にはならなかったでしょう。

第35話で浅井田と姓が出てきて浅田美代子から取ったのかなぁと。


書名『だから美代子です』 1巻~4巻

出版社 竹書房

1巻 2013年11月21日初版発行

2巻 2016年3月12日初版発行

3巻 2017年3月13日初版発行

4巻 2017年12月11日初版発行

2020年5月14日木曜日

石森章太郎の『きりと ばらと ほしと』


 作者は筆名を途中で石森から石ノ森に変えていますがこのマンガの頃は石森でした。

 このマンガは萩尾望都が『ポーの一族』を描くきっかけを与えたことでも知られています。
 「きりとばらとほしと」で検索したところ metalogue.jugem.jp/?eid=2515 にありました。この筆者の小野満麿さんのことは知りませんでした。

 「第1部 きり」は1903年7月オーストリアからお話が始まります。ヒロインのリリが女吸血鬼に咬まれて吸血鬼となります。リリを咬んだ吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれチリになって消えてしまいます。
 「あなたはもう永遠にあたしたちのなかまよ……」と言われたことを思いだし身震いするリリです。
 全部で11ページです。「きり」は最初の馬車がひっくり返る場面と中間のリリが吸血鬼に襲われる場面、そして最後の場面に霧がかかってます。

 「第2部 ばら」は1962年8月の日本です。これはこのマンガがでた時で、リアルタイムのお話です。吸血鬼が犯人との濡れ衣を着せられそうになった時に、リリが犯人を指さして消えるというお話です。犯人は勿論リリの正体を知っているわけではありません。
 このお話は20ページです。「ばら」はリリが自分の正体を現す時に、手に取ります。

 「第3部 ほし」は2008年9月のアメリカで第2部から46年後の未来です。火星から宇宙船団が帰ってきますが、火星のビールスのために船員は吸血鬼になっています。リリはヘンリーを吸血鬼にしようとするのですが、地球人の最後の一人として、死んでいくヘンリーです。
 これは31ページあります。「ほし」は火星と、最後の齣の背景の星々なのでしょう。

 つい、「ポーの一族」と比較したくなりますがそれは野暮というものでしょう。

 第1部はレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」をほとんどそのまま引き写したものです。しかしだからといってリリを襲う吸血鬼の名前をラミーカとはちょっとどうかと……。吸血鬼の登場と、吸血を引き継ぐものの出現を表すにはこれがいいのでしょうか。
 第2部は、少女マンガらしいと云えば、この三つの中では一番そうなのだと思います。登場するのがお金持ちの男とその子供の姉弟です。姉の婚約者も出てきます。
 第3部はまさに地球人最後の男です。とはいえ、読んでいて気になったことがあります。薬を飲んでいて吸血鬼にならないというセリフと、六ページ後の「なかまになるか さもなくば死を……!」とのセリフの齟齬です。薬の効き目が永続するとは書いてないから、いつか効き目が切れるのかなぁと思ったりもして。

 三話ともに有名な詩から始まっています。一話はヘルマン・ヘッセ、二話はスウインバーンそして三話はダンテです。順番に霧と薔薇と星を歌ったものです。
 三つのお話は、年代は飛び飛びなのですが、七月、八月、九月と月は連続しています。これもこだわりなのでしょう。

 この作品は、60年近くも前に描かれたものです。絵柄としては、今のマンガになじんだ人には古いでしょう。それでも齣割りは工夫されていて、現代のマンガに劣るとは思えません、面白く読めます。


 この作品の前に載っているのが、『昨日はもうこない だが明日もまた……』です。これはロバート・F・ヤングの有名な SF 小説『たんぽぽ娘』が下敷きになっているのでしょう。悲しいお話です。
 奇数ページの上にあるタイトルが「昨日はもうこない だが明日また……」と間違っています。これでは意味を成していません。


 タイトル『きりと ばらと ほしと』
 書名『竜神沼』SCM-6 マンガのタイトルは「龍神沼」になっています。ただし、手描きの龍の字が間違っています。だからタイトルの漢字を変えたのかな?
 出版社 朝日ソノラマ
 出版年 昭和42年2月1日

 この本には紐の栞(スピン)がついています。初期の sun comics だけなのでしょうか。


 下火になってきたとはいえ、新型コロナウィルスはまだまだ流行しています。皆様もご自愛ください。

2020年4月19日日曜日

高橋留美子の『人魚』シリーズから『夢の終わり』

 内容少しを書き換えました。以前のものと差し替えます。

 今でこそ少年マンガを描く女性マンガ家は珍しくありません。たとえば荒川弘や桜井のりおがいます。しかし、前にも書きましたが、高橋留美子や柴門ふみがデビューした1970年代の終わりごろはそうではありませんでした。

 『人魚シリーズ』は1984年から描かれたシリーズです。このころ作者は、少年サンデーに『うる星やつら』を、ビッグコミックスピリッツに『めぞん一刻』を描いています。『うる星やつら』はギャグマンガで、『めぞん一刻』は途中からはシリアス系の恋愛マンガになっていきますが、笑いがあちこちにあります。一方、同じ頃に描かれたこのシリーズには笑いが一切ありません。

 このシリーズの下敷きになっているのは人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという「八百比丘尼」の伝説です。手塚治虫の『火の鳥・異形編』には、八百比丘尼その人が登場しています。このマンガでは八百比丘尼は人魚の肉は食べていませんが。
 高橋留美子のマンガには八百比丘尼は出てきませんが、人魚の肉を食べる場面があります。

 人魚の肉を食べて不老不死になった湧太と真魚(まな)が主役なのでしょうか。湧太は五百年も前に、真魚は現代に人魚の肉を食べて不老不死になります。真魚は食べさせられてといったほうがいいのでしょうが。
 多くはこの二人を巡る話なのですが、二人は狂言回しのようです。

 さて、このシリーズから『夢の終わり』について少し見てみようと思います。
 登場するのは湧太と真魚、大眼(おおまなこ)とよばれる化け物とそれを狙う年老いた猟師の四人です。
 山奥で血塗れになって倒れている湧太と真魚、う…と呻き声の真魚、それをみる大眼から話が始まります。
 死んでいると思い湧太を弔おうとする猟師ですが、生き返る湧太に驚いてしまいます。猟師から、倒れていたのは湧太だけと知らされ、女は大眼に食い殺されとると云われます。
 一方、真魚は化け物に拾われたのですが、この化け物は人間の言葉がわかり、話すこともできるのです。真魚に、昔人魚の肉を食ったこと、気がついたらこのような姿になり、村人を全滅させたこと、それ以後ずっとひとりぼっちなことを話します。
 真魚を捜しに出る湧太です。猟師から、大眼を倒すには首を打ち落とすしかないと聞かされ、"なりそこない"ではと思うのですが……。
 大眼はあるときには理性を失い、なりそこないとなってしまいます。
 湧太と猟師は一緒にいる真魚と大眼を見つけます。真魚を連れて抜け穴へと逃げる大眼ですが、26ページから27ページにかけての大眼の心の変化は観るものを引きつけます。真魚は大眼に自分たちと一緒に来るように言いますが、猟師は言います、「そいつは化け物だ 生かしておいちゃならねえんだ」と。穴の中には無数の人骨があります。大眼は「頭がぼ…っとじて…わげが…わがんねぐなるときがある…」と涙を流してつぶやきます。その時、猟師の発砲で大眼は理性を失います。理性を失いなりそこないとなった大眼は真魚をも投げ飛ばす大暴れをして、最後は湧太にやられてしまいます。いまわの際に理性を取り戻し、真魚の名を呼んで息絶えます。
 終わりのページは「最期に人間に戻れたんだ。 ゆっくり眠れ。 もう悪い夢は終わった…」となっています。

 このシリーズでは『夢の終わり』は32ページと一番短い話ですが、終わりに唯一の救いがあるように思えるのです。救いと言うには余りにも哀しいのですが。
 このシリーズには笑いがありません、徹頭徹尾哀しみしかありません。湧太の一人で生きてきた五百年、『人魚の傷』の真人の八百年の日々、楽しいことがあったかもしれませんが、それは生きることのつらさの陰に隠れてしまいます。
 不老不死は、秦の始皇帝を持ち出すまでもなく、昔から人間の憧れでした。しかし不死なのが自分だけで、まわりがどんどん変わっていくのにどの程度耐えられるのでしょう。浦島太郎は玉手箱を開けて現実を知ります。浦島との違いは、裕太たちは変わっていく様子を見ていることです。人は孤独にどの程度耐えられる、あるいは馴れるものなのでしょうか。湧太は真魚と一緒に生きていくことで互いに癒されることでしょう。
 首を刎ねられると死んでしまうということは二人とも知っています。それでも湧太は何度も生きることを選びます。真魚も生きることに拘ります。これは何故なのでしょう。生あるものが生に拘るのは当然なのでしょうか。
 この二人に終わりの日は来るのでしょうか、その時に二人は…などと考えるとちょっと怖くもなります。

 人魚というと、アンデルセンや小川未明を思い浮かべますが、古くから伝わっている伝説もあることを教えてくれるマンガです。前にも書きましたがこのマンガには八百比丘尼の名前は出てきませんが、八百比丘尼についてはネットで探すと詳しく出てきます。

 今回読み返してみて、萩尾望都の『ポーの一族』シリーズを思い起こしていました。吸血鬼と人魚というどちらも永遠の時を生きるもの同士が出会えばどういうお話になるのでしょうか。


 タイトル『夢の終わり』
 書名『人魚の傷』
 出版社 小学館 るーみっくわーるどスペシャル
 1993年1月15日初版第一刷発行

2020年3月11日水曜日

地震から九年

 あの日からもう九年、まだ九年と様々な思いが交錯します。
 今年も TV, ラジオで特番をやっています。九年経つと形のあるものはほとんど出来上がっているようですが、心だけはそうはいかないようです。ハードの面は金さえかければ何とかなります。けれど、亡くなられた方については……。
 時の流れが止まってしまっている方もいらっしゃるようです。

 行方不明の方がまだ 2,529 名いらっしゃいます。親御さんやお子様、親族の方はあきらめきれないことと存じます。

 その頃小中学生だったひとたちが、語り部として震災を語るようになったとも聞いています。これから先、震災を知らない人たちが増えていく時に、心強く思います。

 被災三県として纏められることのある東北ですが、福島県浜通りと宮城、岩手両県とは事情が異なります。原発の問題の片がつくのはいつになるのでしょうか。さっき見た TV ではあと40年で何とかなるかもしれないと云っていました。ニュアンスとしてはケリがつくのではなくて、何とかなる目途がつくと云うことかなぁと。

 今年の3.11は新型コロナのために追悼式の中止や縮小が相次いでいます。

 仙台では午後2時46分過ぎに空に虹が架かっていました。たまたま虹が出ただけと云ってしまえばそれでお終いですが、意味を感じた方も多かったのかもしれません。

 今日の仙台は16.1℃と気温が高くなりました。あの日は雪が降っていました。

2020年2月12日水曜日

高野文子の『絶対安全剃刀』


 高野文子は寡作のマンガ家です。Wikipedia を見るとデビューから40年以上なのに七冊しか本が出ていません。それでもマンガ界に与えた影響は大きいようです。

 この『絶対安全剃刀』は200ページ弱で17の短編が入っています。4ページから20ページまで長さはいろいろです。帯には?と!が三つ書かれていて「?の数は年の数。!の数は心の柔軟度。」とあります。
 その中からいくつかを取り上げます。

 まず『田辺のつる』からです。なぜこれが最初かといいますと、このマンガは心に残るといいますか、妙に記憶に残っているからです。
 ボケ(認知症?)の始まったおばあちゃんの日常のお話です。
 マンガの中では、おばあちゃんは「きいちのぬり絵」の女の子のように描かれています。おばあちゃんの心象としては女の子なのでしょう。おばあちゃん以外は普通の人物です。おばあちゃんは孫の女子高生にはいやがられているようです。孫のボーイフレンドとのちぐはぐな会話に代表されるように、どこかすれ違うおばあちゃんと家族の会話があります。最後の齣については、夏目房之助が驚嘆したとか、Wikipedia にあります。
 実はこの短編集の中のマンガではっきり覚えているのはこのマンガだけだったのです。年取ってから自分の居場所が無くなるというか、見つけられないという読む側の焦燥感というかそんな妙な気持ちです。
 おばあちゃんを五歳くらいの女の子に描くと云う手法には驚きます。でもこれには二重の意味があると思います。このマンガが印象に残ったのは、巷間にいわれている「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」を文字通り絵にしたのではと思ったからです。子供として描かれている82歳のおばあちゃんには違和感がありません。
 老人問題は永遠のテーマなのでしょう。このマンガは40年前に描かれていますが、今でも充分に通用する内容です。

 次は『アネサとオジ』、『いこいの宿』を取り上げます。Wikipedia によりますと、このシリーズはあと二作あるが単行本には入っていないとのことです。
 『アネサとオジ』では、アネサは弟のオジをいじめます。何とか対抗しようとするオジですがことごとく成功しません。ところが、「歩きながら本を読むとは本を読みながらものを食いそれでもたりずにしゃべるとは…!」とオジが普通にしているのに驚かれ「それいらいアネサはオジを師とあおぐようになりました」で終わっています。普通と普通でないことの境界はどこなのでしょうね。このマンガはセリフも地の文も手書き文字です。
 『いこいの宿』は内容については Wikipedia の『絶対安全剃刀』の項を見てください。最後の齣で、青年から貰った“希望”と云う名の人形を身体の前面におんぶ紐でおんぶしているアネサとオジが家の前に佇んでいる場面で終わっています。確かにいわゆる少女マンガのパロディーが多いとは思いますがそれだけでもないのかなぁと。

 最後に『絶対安全剃刀』についてですが、実は今回読み返してみるまでは内容はすっかり忘れていたのです。で、何か書こうかとも思ったのですが、止めておきます。

 このようなマンガは読み終えたあとで、あぁ面白かったと本を閉じるよりは、妙に疲れます。それでも止められませんが。


 書名『絶対安全剃刀 高野文子作品集』
 出版社 白泉社
 昭和57年1月19日初版発行

2020年1月17日金曜日

阪神淡路大震災から25年


 あの大震災から25年、TV やラジオではいろんな番組をやっていました。25年も経つと震災経験のない人が多くなるのは仕方のないことです。どのようにして震災体験を繋いでいくかでしょう。
 犠牲となられた 6434 名の方に手を合わせます。

 25年というと四半世紀と云うことになります。この震災の25年前というと1970年(昭和45年)、大阪万国博覧会のあった年です。よど号のハイジャック事件があり、三島由紀夫の事件のあった年でした。その25年前といえば、1945年(昭和20年)です。第二次世界大戦の終わった年でした。
 戦後の苦難を乗り越え、高度経済成長期になったのが1970年までの四半世紀で、1973年のオイルショックに始まり、1979年の第二次オイルショックを乗り越えバブル景気になりそれがはじけるまでが1995年の次の四半世紀だったように思います。その次の四半世紀は日本は失われた○十年になったようです。
 勿論、パソコンの高性能化と普及、AI の発展などがありますが。

 本当に何の纏まりもなくなりましたが、四半世紀でふと思ったことを書いてみました。