2011年11月30日水曜日

萩尾望都の『かたっぽのふるぐつ』

公害を扱った40年前の作品です。以下のページに内容が載っています。
 http://www.hagiomoto.net/works/013.html
 なお、これにはネタバレはありませんが、以下にはそれも記しています。

 「ぼくたちのY市は 石油コンビナートの町だ(中略)みんな スモッグとガスの中にある」そんな町にある小学校の5年B組はさよなら会で「ふるぐつホテル」と云う劇をやることになります。ヨーコによると「旅人にすてられたぼろぼろのふるぐつがアリたちに励まされ、希望を失わずひばり一家の巣になるまで」のお話です。吉田志郎と渡辺悠は古靴の役をやることになります。

 公害についての授業でクラスでは侃々諤々の議論をします。終業のベルが鳴り、先生は言います。「きみたちは公害に 勝つために 強いからだを つくることだ かんぷまさつや うがいを かかさずやって 体力をつける」
 志郎との帰り道で悠は言います。「かんぷまさつじゃ 公害に 勝てないよ!」

 志郎は家に帰って父親に公害のことを訊きます。すると父親は言います。「何億円もかけて公害防止機械を買いいれ設備をよくしてる 公害なんか出してやしない」
 それを聞いて安心する志郎ですが…。
 翌朝、学校への途中で出会ったヨーコは言います。以下にそれを要約します。
 “現実に公害はある、そんな公害防止機械なんてない。父さんたちは会社ではたらいて、わたしたちに食べさせたり教育をうけさせたりしている。町の発展のためにはコンビナートは必要だ、人間は石油からはなれて生きていけない。公害はいや! でも公害は必要悪だ。”

 その日休んだ悠に会うために、帰りに悠の家に寄った志郎に悠は見た夢の話をします。
 “第三次世界大戦さ 石油コンビナート対人間の 煙はまるまって 世界中の空にちった 悪臭は風をつかまえて 世界の空気の中にひろがった ロケットで わずかの人びとが 月へ逃げた 石油コンビナートはますます大きくなって…… 地球の爆発と一緒に宇宙へ飛び散り 宇宙中の全部の星が 腐ってとけて消えてしまった”
 その話を聞いてぽかんとする志郎でした。

 次の日の朝、志郎とヨーコは悠を迎えに行きます。
 放課後、劇の練習中に悠は発作を起こし、救急車で病院に運ばれますが、その夜に喘息で吐いたものが気管に詰まり、死んでしまいます。

 さよなら会は中止になります。通知表を渡されるとき、志郎は先生に尋ねます。吉田の次は渡辺だったのです。「それ…… 中味 書いて あるんですか?」「今日 わたす つもりだった ……からな 渡辺は公害に 勝てなかった なあ」
 自分の席に戻りかけて志郎は叫びます。「ユウは かんぷまさつじゃ 公害に勝てないって 言ってました」「亜硫酸ガスには プロレスラーだって 勝てない……負ける!」

 終わりまでのおよそ5ページは志郎の思いなのでしょう、ある意味で、社会問題(公害)に対する思いです。
 石油コンビナートの町----- 人びとの幸福と未来を約束された町に------ あしたをもたない少年たちがいる…… との言葉でマンガは終わります。

 このような社会派のテーマは悪を想定して、それを叩くという形になりやすいのですが、このマンガにはそういったものがほとんどありません。もちろん、公害を認めているのではありません。公害は悪であるが、それを全面否定もできない、そんな宙ぶらりんの状態をどうすればいいのかに重点があるような……。

 このマンガの頃は、公害問題が日本中に蔓延していました。このマンガの舞台のY市についても、Wikipedia に詳しく載っています。これが描かれた頃は公害の後期にあたるようです。
 また、松尾鉱山の閉山は 1969 年とのことですので、脱硫装置はこの頃までにほぼできあがっていたようです。

 このマンガを読んだのは 1977 年なので、公害問題はほとんど終わった頃でした。それでも読み手の胸に響くものはありました。
 このようなマンガは、今も公害に悩まされている国では、どのように受け取られるのでしょうか。


 タイトル『かたっぽのふるぐつ』
 書名 萩尾望都作品集2『塔のある家』
 出版社 小学館
 昭和52年4月10日初版第1刷発行


 11月25日に出た雑誌「暮しの手帖」に萩尾望都のエッセイが載っていて、両親のことを書いています。

2011年11月13日日曜日

ちょっと休憩 『七ツ森』

仙台の北に大和町という町があります。そこに七ツ森と呼ばれる七つの小さな山があります。大和町のホームページに「七ツ森のできたわけ」と云うお話が載っています。
 https://www.town.taiwa.miyagi.jp/soshiki/soumu/7tsumori.html
 七ツ森は、地名で、七つ森ではありません、念のため。

 仙台に住んでしばらく経った頃、わたしはどうにもこの七つの小さな山が気になって仕方ありませんでした。もちろんまだホームページなんか無い頃のことです。そこで自分でこの山のいわれを考えてみたのでした。
 以下、少し恥ずかしいのですが、それを書いてみます。

 ずうっとずうっとむかしのこと、七ツ森の辺りは一面の田圃だった。
 ある日、男があぜ道で大きなたまごを拾った。そのたまごときたら、にわとりのたまごを十(とお)集めたものを十(とお)集めたよりも大きかった。男は村のものを呼び集めた。「はて、なんのたまごだべぇ」「さて、こんなたまごなんぞ見たこともねぇ」「食えるべぇか」などと話していると、堅い木を叩くような音がした。見る間にたまごが割れて中からヤモリのようなもんが出てきた。その大きさときたら、大きなネコよりも大きかった。わっと、みんなは逃げ出した。
 それからが大変だった。この生きもんは初めは人の家に入り込んで飯を平らげていた。そして、食えば食った分だけ大きくなった。飯を食い尽くすと、秋の田圃に入り込んで、刈り取り間近の稲を食いだした。辺り一面の田圃を食い尽くす頃には小山のような大きなもんになっていた。とても鍬や鎌で殺せるような代物ではなかった。
 ばけもんは稲を食い尽くすと、ぐっと頭を上げ鼻をひくひくさせて、北へ向かってのそのそと歩き出した。どうやら大崎の方へ向かうらしい。百姓たちは智慧を絞った。「毒を盛るしかあんめえなぁ」「けど、あいつは米しか食わんぞ」「その米に毒を盛ればいい」ということで、みんなは毒草を集めに集めた。なにしろあんなでかい身体だ、少しぐらいでは効くまい。毒草から搾った汁を炊きあげた飯に混ぜて、大きな握り飯をいくつもいくつも作った。それをばけもんの前に置いて、遠くから様子を見た。
 ばけもんは飯の匂いを嗅ぎつけると、のそのそとやってきて、握り飯を食いだした。その間にも、食った分だけさらにばけもんは大きくなった。「もうすぐみんな食っちまうぞ」「いっこうに弱ったふうには見えんなぁ」と、みんなは不安げに見ていた。
 そのうち、さすがのばけもんにも毒が回ってきて、のたうち回り始めた。その時、ばたばたさせていたしっぽが泉ヶ岳にあたった。その頃の泉ヶ岳は、今よりもずっと高くて、富士山のような形だったのが、しっぽがあたって頂が二つに割れた。こうして北泉ヶ岳と泉ヶ岳ができた。
 しばらくすると、ばけもんはぴくりともしなくなった。おそるおそる近寄ってみると、ばけもんは死んでいた。大きすぎて動かせなかったのでそのまま放っておいたら、いつの間にか、ばけもんは山になっていた。ばけもんの頭や背骨が今の七ツ森だということだ。

 おしまい


 どこかで聞いたことのあるようなお話かと思います。でも、民話とはそうしたものなのではないでしょうか。
 こんな話をあとふたつ作ってみたのでした。三つの中でこれが面白いと言ってくれた人のいたのが、このお話です。