2012年8月29日水曜日

巴里夫の『赤いリュックサック』と『疎開っ子数え唄』

 戦争を扱ったマンガを持っていたはずと捜してみました。すぐに目に付いたのが河あきらの『山河あり』と巴里夫の『赤いリュックサック』でした。
 『山河あり』は、杜甫の「春望」の一節からつけられたのでしょう、本来の意味とは少し違いますが。

 さて、『赤いリュックサック』ですが、昭和20年8月の満州が舞台です。ソ連軍の侵攻に伴い、8歳の陽子は母親と一緒に東満州から南を目指して逃げることになります、赤いリュックサックを背負って。父親は役所の残務整理をしてから、後を追うことにします。しかし、妻子と別れた直後に砲弾に当たり命を落とします。
 南に逃げる一行に対して、匪賊の襲撃があったり、わずかの食料と引き替えに子どもを現地の人に渡したりと云ったことが起こります。まだ国内では大きな問題として扱われていない中国残留日本人孤児の問題の芽がマンガに描かれています。Wikipedia によれば、1980年に問題が再認識され、1981年から訪日肉親捜しが始まっています。
 追い詰められた一行は自害することを選びます。短刀の刃を陽子に向けて母親はためらいます。目をつぶって母の胸に陽子は飛び込んでいきます。「富士山がみえる(中略)きれい」とつぶやいて陽子は亡くなります。満州で生まれ育った陽子は本当の富士山は見たことがありませんでした。
 前方からも兵が現れ、もはやこれまでと云うときに、後から現れた兵は一行を追い詰めた兵に射撃を浴びせます。将校が現れ、命令に背いた部下を撃ち殺したことを告げます。それを聞いて陽子の母は死んでしまった陽子を思い、短刀を我が身に突き立てようとしますが、止められてしまいます。8月14日のことです。
 以下の2ページで敗戦の日から、日本への引き揚げが描かれ、最後の4ページでは、富士山のみえる地に立つ陽子の地蔵と、8月が来るたびにお地蔵様の赤いリュックサックを新しくする母親が描かれています。

 歴史の一ページとしてこんな事もあったのかとの思いがまず湧きました。また、本当にさらりとしか描かれていませんでしたが、敗戦から、引き揚げ船に乗るまでが大変だったというのを読んだこともありました。
 母親を生きて内地に帰すためとはいえ、将校の出現はあまりにも都合がよすぎるように思えました。偏見かもしれませんが、ソ連軍の将校がこんなことを言うとは思えませんでした。
 それでも、陽子が死の間際に富士山を見るシーンは、何度読み返しても胸に迫るものがありました。そして最後のページで、赤いリュックサックに結んでいるひもが切れて鈴が地面に落ちる終わりも印象深いものでした。

 次に『疎開っ子数え唄』ですが、『赤いリュックサック』の次に載っているマンガです。東京から長野の田舎に疎開した小学5年生の少女・美保子のお話です。
 優等生で五人の班の班長を務める美保子ですが、疎開してからは班の中で少しずつ浮いた存在になっていきます。たった一度の過ちで班長の座も失ってしまいます。そんな中、面会に来た母親に帰りたいと言いますが、それは叶いません。煎った大豆をいれたお手玉五個を置いて母は帰っていきます。
 しばらく経った3月10日、東京大空襲で母と妹は命を落とします。それを先生から聞かされて美保子は認めまいとして、気が触れてしまいます。
 戦争も終わりしばらくした10月、疎開も終わり美保子を除いてみんなは東京に帰ることになります。別れにお手玉をもらった美保子は、笑いながら戦時の数え歌を歌いお手玉をします。そんな美保子を見てみんなは「疎開って、戦争って、お国のためって」なんだろうと思うのです。


 『赤いリュックサック』は戦争を扱ったマンガだと言うことは憶えていましたが、内容はほとんど忘れていました。また『疎開っ子数え唄』については、完全に記憶から抜け落ちていました。改めて読み返してみますと、ある意味での極限状態でのいじめの問題や、敗戦による価値観の転換など、テーマとしては、今に通じるものがあると思います。


 書名『赤いリュックサック』
 出版社 集英社
 1974年9月10日初版発行(手元にあるのは1975年8月10日第2版です)

 『赤いリュックサック』昭和47年りぼん8月号
 『疎開っ子数え唄』昭和48年りぼん9月号 と記されています。