2012年12月5日水曜日

奥友志津子の『冬の惑星』

 惑星フェルサリアは、最高気温が氷点下20度以上にはならない星です。そこにも地球からの人類が住んでいます。普通人(コモン)からは、ネオと呼ばれる超能力者達です。  ケイトに言わせると、「わたしたちは 地球を追われた のじゃないわ わたしたちが 地球を捨て たのよ」ということになるのですが。

 以下にあらすじを書きます。
 主人公のロドニーはネオですが、それを知っても両親は彼を手元に置き育てますが、14歳の時に町の人にネオと知られて、リンチを受け両親は死亡します。瀕死のロドニーは救われてフェルサリアに送られてきます。
 念波の強さによる能力の可能性でロドニーの出した値は∞(無限大)でした。
 ロドニーはケイトに「超越者として あの人間どもの上に 君臨する方が ずっとたやすくて 楽なのに」と言いますが、ケイトの返答は先に記したものでした。ロドニーはこの考えの隙をフェルサリアの女神サラヴィーアに突かれることになります。
 一万年の眠りから覚めた女神サラヴィーアはロドニーを見つけ「わたくしの小さな騎士(ナイト) わたくしのかわいい とりこ」とつぶやきます。
 ロドニーの能力はみるみるうちに開花していきます。
 何度目かにサラヴィーアに会ったときに、彼女は一ヶ月以内に地球帰還の発表があることを告げます。そしてロドニーを地球に連れて行きます。実体ではなく虚像…精神のみを送ることで。地球で姿を見られて、サラヴィーアは何のためらいも見せず小さな兄妹を殺します。それを見て動揺するロドニーに彼女は言います。「まだまだ感情が不安定ですね それが命とりにならぬよう気をおつけなさい」と。
 三週間後の地球帰還が発表されますが、失踪者が続出します。その中に友だちのジニもいます。テレパシーの輪を広げてジニの行方を突き止めますが、そこはいつもサラヴィーアに会っていたところでした。行ってみると失踪者みんなが精神の欠落した状態です。現れたサラヴィーアは「コントロールを柔順に 受けいれるには ほんの少し精神が 強すぎたのです」といいます。
 そこにケイトが現れます。ケイトを守るためにロドニーはサラヴィーアと戦うことになります。相打ちにはできると、ケイトを基地の中にテレポートしてから、ロドニーはサラヴィーアに挑みます。
 医務室でロドニーはケイトに言います。「やっと見つけたよ地球を ぼくの心の中に 歩き出すよ 君たちの中へ」

 人類と新人類の対立を避けるために、二つの星に棲み分けると云ってしまえば身も蓋もなくなってしまいます。そこに一万年前は温暖な気候だった星を舞台にして、その頃の文明を回想の形で出してきたところが面白く思えました。
 疑問に思ったことを二つほど。
 一つめは、フェルサリアは地球からどのくらい離れたところにあるのだろうかということです。コールドスリープで渡ってきたとありましたが何光年と云うことは具体的にはありません。
 二つめは、地球に行ったサラヴィーアがどうして人を殺せたかです。虚像…精神のみで人を殺せるのだろうかと云うことです。精神がこのマンガのキーワードだから可能だと云われればそうですが…。


 書名『冬の惑星』
 出版社 東京三世社 シティコミックス
 昭和59年1月1日初版発行


 前回からいつの間にか三か月以上が経ってしまいました。前回はまだ暑かったのに、今はしっかりと暖房を使っています。
 今日から三年目に入ります。最低でも月に一度は更新したいと考えています。

2012年8月29日水曜日

巴里夫の『赤いリュックサック』と『疎開っ子数え唄』

 戦争を扱ったマンガを持っていたはずと捜してみました。すぐに目に付いたのが河あきらの『山河あり』と巴里夫の『赤いリュックサック』でした。
 『山河あり』は、杜甫の「春望」の一節からつけられたのでしょう、本来の意味とは少し違いますが。

 さて、『赤いリュックサック』ですが、昭和20年8月の満州が舞台です。ソ連軍の侵攻に伴い、8歳の陽子は母親と一緒に東満州から南を目指して逃げることになります、赤いリュックサックを背負って。父親は役所の残務整理をしてから、後を追うことにします。しかし、妻子と別れた直後に砲弾に当たり命を落とします。
 南に逃げる一行に対して、匪賊の襲撃があったり、わずかの食料と引き替えに子どもを現地の人に渡したりと云ったことが起こります。まだ国内では大きな問題として扱われていない中国残留日本人孤児の問題の芽がマンガに描かれています。Wikipedia によれば、1980年に問題が再認識され、1981年から訪日肉親捜しが始まっています。
 追い詰められた一行は自害することを選びます。短刀の刃を陽子に向けて母親はためらいます。目をつぶって母の胸に陽子は飛び込んでいきます。「富士山がみえる(中略)きれい」とつぶやいて陽子は亡くなります。満州で生まれ育った陽子は本当の富士山は見たことがありませんでした。
 前方からも兵が現れ、もはやこれまでと云うときに、後から現れた兵は一行を追い詰めた兵に射撃を浴びせます。将校が現れ、命令に背いた部下を撃ち殺したことを告げます。それを聞いて陽子の母は死んでしまった陽子を思い、短刀を我が身に突き立てようとしますが、止められてしまいます。8月14日のことです。
 以下の2ページで敗戦の日から、日本への引き揚げが描かれ、最後の4ページでは、富士山のみえる地に立つ陽子の地蔵と、8月が来るたびにお地蔵様の赤いリュックサックを新しくする母親が描かれています。

 歴史の一ページとしてこんな事もあったのかとの思いがまず湧きました。また、本当にさらりとしか描かれていませんでしたが、敗戦から、引き揚げ船に乗るまでが大変だったというのを読んだこともありました。
 母親を生きて内地に帰すためとはいえ、将校の出現はあまりにも都合がよすぎるように思えました。偏見かもしれませんが、ソ連軍の将校がこんなことを言うとは思えませんでした。
 それでも、陽子が死の間際に富士山を見るシーンは、何度読み返しても胸に迫るものがありました。そして最後のページで、赤いリュックサックに結んでいるひもが切れて鈴が地面に落ちる終わりも印象深いものでした。

 次に『疎開っ子数え唄』ですが、『赤いリュックサック』の次に載っているマンガです。東京から長野の田舎に疎開した小学5年生の少女・美保子のお話です。
 優等生で五人の班の班長を務める美保子ですが、疎開してからは班の中で少しずつ浮いた存在になっていきます。たった一度の過ちで班長の座も失ってしまいます。そんな中、面会に来た母親に帰りたいと言いますが、それは叶いません。煎った大豆をいれたお手玉五個を置いて母は帰っていきます。
 しばらく経った3月10日、東京大空襲で母と妹は命を落とします。それを先生から聞かされて美保子は認めまいとして、気が触れてしまいます。
 戦争も終わりしばらくした10月、疎開も終わり美保子を除いてみんなは東京に帰ることになります。別れにお手玉をもらった美保子は、笑いながら戦時の数え歌を歌いお手玉をします。そんな美保子を見てみんなは「疎開って、戦争って、お国のためって」なんだろうと思うのです。


 『赤いリュックサック』は戦争を扱ったマンガだと言うことは憶えていましたが、内容はほとんど忘れていました。また『疎開っ子数え唄』については、完全に記憶から抜け落ちていました。改めて読み返してみますと、ある意味での極限状態でのいじめの問題や、敗戦による価値観の転換など、テーマとしては、今に通じるものがあると思います。


 書名『赤いリュックサック』
 出版社 集英社
 1974年9月10日初版発行(手元にあるのは1975年8月10日第2版です)

 『赤いリュックサック』昭和47年りぼん8月号
 『疎開っ子数え唄』昭和48年りぼん9月号 と記されています。

2012年7月31日火曜日

ふくやまけいこの『星の島のるるちゃん』

ふくやまけいこの絵は、どことなくほんわかとしていて見ていてほっとします。「ナノトリノ」は、冒険物のようでいて、少し違うし、「ひなぎく純真女学園」は、百合物と帯にはあるのに、いわゆる百合物ではないし。
 「東京物語」のころから見ると、力を入れて読む必要がなくなっています。

 初期の作品の「ゼリービーンズ」も面白いのですが、ここでは90年代半ばの表題作を取り上げてみます。
 このマンガは三回にわたって単行本になっています。そして、内容がひとつずつ増えているのです。

 舞台は2010年四月の地球・星の島からお話は始まります。
 るるちゃんは、星の形をした人工の島、星の島にパパとやってきます。パパはずーっと地球で海藻の研究をしています。ママはサテライトの通信係をしていて、宇宙に残っています。一年間るるちゃんをパパと暮らすためにと、地球に送り出したのです。

 星の島には学校がひとつしかなく、新学期から早速通うことになるのですが…。
 「びっくりだらけの新学期」でクラスメイトと仲良くなります。その中には、島一番の大金持ちの家の子タフィー、ロボットのエリ、転校生の新野郎太、宇宙人のメロウがいます。

 不思議な犬に出会って友だちになります。犬ではなくて、本当は宇宙人なのですが、るるちゃんにはどうでもいいことのようです。名前はフーポワとつけます。
 島の洞窟を探検して恐竜の子どもとも友だちになります。これが伏線で、このあと恐竜の母親が出てくるのですが、子どもから、るるちゃんは友だちだと言われて、島を壊すのをやめます。

 次のお話からパピルス(パピちゃんと呼ばれて、ムッとしています)という女の子が登場します。転校生で、歌い手で、スフィンクスというロボットを連れています。
 パピちゃんの登場から星の島を去るまでのお話が全体の半分を占めています。るるちゃんが主役のはずなのですが、パピちゃんに完全に食われているのは気のせいではないでしょう。

 以上で、講談社版は終わりになっています。

 大都社版では番外編として、「やってきたポメちゃん」が載っています。フーポワを追いかけてきた恋人(?)のポメちゃんが、お話の終わりで思わぬ活躍を見せます。
 ハヤカワコミック文庫版ではこのお話が17話になって、最終話として、「ふたりのエリちゃん」で完結しています。
 人間のエリが帰ってくることになり、ロボットのエリは…と云うお話です。
 最後の齣は人間のエリ、ロボットのエリとともに、の大団円です。


 以下のサイトには、『ゼリービーンズ』の「Sleeping Beauty」との対比が載っています。
 http://sukeru.seesaa.net/article/232053340.html


 書名 『星の島のるるちゃん』1巻, 2巻
 出版社 講談社 KCN778, 791
 1994年5月6日 第1刷発行, 1994年11月2日 第1刷発行
 2巻の終わりには "第3巻に続く" とありますが、3巻はありませんでした。

 書名 『星の島のるるちゃん』1巻, 2巻
 出版社 大都社
 2000年5月8日 初版発行(1, 2 巻とも)

 書名 『星の島のるるちゃん』1巻, 2巻
 出版社 早川書房 JA785, JA791
 2005年3月10日, 2005年4月10日 印刷
 2005年3月15日, 2005年4月15日 発行


 読み終えたあとで、ロボットと人間の関係は永遠のテーマなのだなあと知らされます。

2012年6月10日日曜日

ちょっと休憩 『吉備大臣入唐絵巻』と『蘇我簫白』 マンガのような…

昨日、久しぶりに東京に行ってきました。行ったついでに、東京国立博物館で開催されていた「ボストン美術館 日本美術の至宝」展を観てきました。その中で特に印象に残ったのが、標題の二点でした。

 「吉備大臣入唐絵巻」は12世紀後半に作られたと説明にはありました。一方のマンガの始まりとされる「鳥獣戯画」は、四巻からなり古いものは12世紀とのことですので、こちらの方が少し古いようです。ですが、「入唐絵巻」には、物語性があります。云ってみれば、絵物語と云ったところでしょうか。ストーリーマンガの元祖かもしれません。

 「蘇我簫白」は雲龍図で有名です。ここに描かれている龍は恐ろしいというより、ユーモラスです。また、「商山四皓図屏風」は、デフォルメされた人物は、どう見てもマンガの登場人物です。さらに「風仙図屏風」は、もう少し効果線をいれればそのままマンガとして使えそうです。
 簫白の絵はマンガ的なものだけではないことは付け加えておきます。

 日本では大人もマンガを読むと、海外で話題になったのは40年ほど前でしょうか。でも、絵巻物として、800年も前からマンガ的なものを見て喜んでいたのならば、何を今更と思えるのです。

2012年5月27日日曜日

西谷祥子の『マリイ・ルウ』

西谷祥子は、なんとなく前の世代のマンガ家として、ほとんど読んでいませんでした。
 記憶にあるのは、「花びら日記」の、アルバイト、是か非かの場面と、友だちが劇団に入ってどうこうの場面だけです。あるいは別のマンガとごちゃごちゃになっているかもしれません。

 表題の作品は1965年の後半に週刊マーガレットに載っていたものです。およそ半世紀も前のマンガです。
 2003年に新たに出版されたものを本屋で見かけて買ってきましたが、そのまま積ん読になっていました。表紙の、目の中にきらめく星に、何でこのマンガを買ったのだろうとの後悔があったのかもしれません。きわめて典型的な古い時代の少女マンガとの思い込みがあったのでしょう。

 読んでいて古き良き時代の少女マンガとは思いましたが、面白く読めました。

 アメリカのハイスクールを舞台にした Boy meets girl (Girl meets boy かもしれませんが) の典型的なマンガです。
 大学生の姉のローラは、妹のマリイルウもうらやむほどの美人で、取り巻きの男達が大勢いつも家に押しかけてきています。そんな中に、道路からローラの部屋の窓を見上げるハンサムな青年がいます。ジョージという名前で、マリイルウは一目惚れをします。
 そのジョージ・スコットからパーティーへの招待状をもらって喜ぶマリイルウですが、ローラが付き添いで行くことになります。ところがせっかくのドレスをペンキ屋のはしごにぶつかってペンキがかかりだめにしてしまい、パーティーには行けなくなってしまいます。ジョージの車に乗ってローラは帰宅しますが、別れ際に二人はけんかをしています。
 ハイスクール時代にローラとジョージはつきあっていて、結局二人は婚約します。
 マリイルウは、ジョージの後輩で、ペンキ屋のアルバイトをしていたジムと、つきあうことになります。この二人がつきあいを始めるまでが、このお話の後半なのですが、そこは割愛させてもらいます。

 絵はさすがに半世紀前のものなので、今の読者にはつらいものがあるかもしれません。また、設定にも現在にはどうかというのもあるかもしれません。けれどテーマは今でも十分に通用するものと思います。登場人物の一人ひとりの心理描写の濃やかさや、それに至る環境設定は決して古びていません。
 それに、結果がわからなくて、ドキドキしながら読んでいても、悪いことにはならないはずという予定調和なので、安心して読めます。


 書名『マリイ・ルウ』
 出版社 白泉社
 2003年9月13日 第1刷発行


 単行本としては、「マリイ・ルウ」は最初に集英社マーガレットコミックスで出版されていて、MC 1 になっています。同時に出たのが、わたなべまさこの「ハイジ」と、水野英子の「すてきなコーラ」で、いずれも 1968年1月5日初版発行になっています。
 表紙の絵を見ると、目の中の星は集英社版の方が多いようです。

 朝日ソノラマのサンコミックスは、少女マンガもありましたが、少女マンガのみを扱ったものはマーガレットコミックスが、最初のようです。

2012年4月30日月曜日

ぬまじりよしみの『ひがみちゃん・Jam』

この人の少女マンガは「ちょっとだけESP」と表題作しか単行本になっていないようです。あとは全部レディースコミックです。

 このマンガは作者のデビュー作です。大学生のキャンパスライフを描いたものですが、いわゆる青春マンガではありません。
 舞台は私立小田巻大学です。そこに通う市毛ひがみと数人が主な登場人物です。ひがみは一見すると小学生のように小さな女の子です。学生証や定期券をなくしたところからお話が始まります。

 70年代から80年代というと、大学が都心から郊外へと移転していた時期なのでしょうか、ただし、この大学は新設大学です。資金がなくて、田舎に大学を作ったようです。
 いったいどこら辺りを作者は考えていたのでしょうか。このマンガを読んでいて、初めは東京の西部かと思っていたのですが、「海辺の人々」で、間違いに気づいたのです。第三巻の57ページを見ると神奈川県のようです。

 追記:小田巻なら鎌倉だと気づきました。簡単なことなのに。(2015/12/27)


 終わりから二番目の「小田巻大学の崩壊」で、資金繰りが付かなくなって大学は倒産してしまいます。最後の「小田巻にお越しの節は」で、このマンガには何度も登場している大地主の与作が、再建資金を都合してくれて、与作ちゃん立小田巻大学として大学は復活します。ただし、農作業が必修としてですが。

 このマンガを読み返してみて、三巻の穴埋めページのてぃー・たいむが、こんなに面白いことが描いてあることをすっかり忘れていました。
 その後の登場人物と作者との茶飲み話なのですが、これがなかなかのものです。自分で作った登場人物とはいえ、性格がうまく描かれています。


 書名 『ひがみちゃん・Jam』1〜3巻
 出版社 白泉社 花とゆめCOMICS 301, 422, 423
 1982年1月25日第1刷発行 第1巻
 1982年9月25日第1刷発行 第2巻
 1983年7月24日第1刷発行 第3巻


 第1巻の巻末にはパタリロの第10巻、第3巻の巻末には第18巻の広告が載っていました。

2012年4月22日日曜日

あとり硅子の『これらすべて不確かなもの』

登場するのは生活破綻者(?)の父親・史緒と、三人の息子・葵、遠志、珠生、そして死んでしまった母親・颯子です。父親は一人では何もできず、息子達はそんな父を反面教師として、颯子の墓の近くに引っ越した父とは離れて暮らしています。
 母親の命日に、父親の家に集まる次男・遠志と三男・珠生、そこで目にするのは、どうしようもない父親の姿です。

 暴風雨の中、盛装で墓参りに出かける父親と、あとを追う遠志。母親の墓前で思わぬ事を聞かされます。「きみたちを キライだとか いらないとかは 思っていないが」、さらにきっぱりと「愛情はない」と言われます。
 雨で崩れた道から滑り落ち、病院に運ばれる遠志ですが、そこに長男・葵が駆けつけます。
 葵とのやりとりで、遠志は思い出します、母親に言われたことを。「史緒の仕事は 母さんだけを愛すること」と。

 史緒はさらに付け加えます。「約束したんだねえ……颯子と ずっと颯子だけを愛すると」 颯子のポリシーは「愛だって分ければ減る」だったのです。そして、史緒はその約束を忠実に守っているのでした。

 わたしには、この考え方は驚きでしたし、新鮮なものでした。広大無辺な愛は、普通の人には無理なのはわかります。しかし、身内に対しての愛さえも分ければ減ってしまうものなのでしょうか?
 息子達の母親の思い出からみると、颯子は、子ども達にはそれなりの愛情を注いでいたように見えるのですが。

 巻末のおまけは、笑いながら読めました。


 書名『これらすべて不確かなもの』
 出版社 新書館 WINGS COMICS
 1998年9月10日 初版発行


 あとり硅子は、本屋で『夏待ち』を見て買ったのです。なぜかというと、名前のせいなのでした。硅子の「硅」と言う字に引きつけられたのです。日本語では硅素以外には使われない字だとのことです。

 あとり硅子さんが逝ってもうすぐ八年になります。多くはない作品は今も輝いていると思いますが、手に入りにくいのは仕方ないのでしょうか。

2012年3月31日土曜日

佐藤史生の『金星樹』

この人のマンガを初めて見たのはプチフラワー創刊号の「夢見る惑星より 竜の谷」です。その時はあまり気にも留めませんでした。大きな物語の始まりとは気がつかなかったせいでしょう。

 表題の作品は1978年とのことですので、相当初期の作品です。「金星樹」と云うタイトルの本は何度か出版されたようですが、手元にあるのは、1992年出版のものです。奇想天外社からの1979年出版に「青い犬」を追加したものです。

 最初が「星の丘より」で、カヴァーの女の子の絵は、鼻と口元が、山田ミネコを思わせます。顔の輪郭は山田ミネコの少女は、もっと丸いのですが。奇想天外社版ではこれが最後になっています。
 話としては、SF ではよくある話なのですが、なかなかに面白く作ってあります。6ページ目でここが火星だとわかるシーンがあります。

 「金星樹」は、一種のタイムマシンものというか、タイムパラドックスものというか、アイディアがものをいっています。
 以下にあらすじが載っています。
 http://www.chatran.net/dispfw.php?A=_manga/_sato
 ここには、『金星樹』のなかの、「一角獣の森で」と「星の丘より」のあらすじも載っています。

 時間がゆっくり流れる現象というと、遠くからブラックホールに落ちていくのを見るというのが思い起こされます。金星樹はブラックホールに近い現象を引き起こす何かなのでしょうか。こちらから行くことができるのも似ているように思えます。

 登場する三人のそれぞれに揺れ動く心の内が、うまく描けています。特に後半のネネとアーシーの会話、そして45年後のアーシーの言葉が胸を打ちます。
 けれど、ほとんど動かないネネとマッキーをずうっと見つめてきたアーシーの内心は、神への感謝だけだったのでしょうか……。

 前に取り上げた佐々木淳子の「セピア色したみかづき形の…」とは違った意味での、抒情的SFといえるでしょう。ブラッドベリを読んだような気になります。


 書名『金星樹』
 出版社 新潮社 Alice's Book
 1992年12月15日

 奇想天外社奇想天外コミックスは、1979年7月5日初版発行


 間もなく佐藤史生さんの三回忌になります。4月4日が命日です。
 長生きして、もっと作品を描いてほしかった人です。

2012年3月21日水曜日

紺野キタの『ひみつの階段』

紺野キタは、今は「Webスピカ」で『つづきはまた明日』を描いています。この人のマンガを初めて見たのは、コミックFantasy に載っていた作品です。たぶん『白日夢』が最初だと思いますが、ここでは表題作を取り上げます。『ひみつの階段』シリーズの第一作で、シリーズ名にもなっている作品です。

 マンガで、階段というとまず思い浮かぶのは、くらもちふさこの『おしゃべり階段』なのですが、これは読んだことはありません。

 『ひみつの階段』は、女子校の寄宿舎が舞台です。一ページ目で主人公の夏は、三段しかないはずの階段を踏み外し、転げ落ちてしまいます。下には、夏が知っているような知らないような女の子がいます。足を挫いたという子に肩を貸し、階段を登り扉を開けるとそこはいつもの光景で、女の子は消えています。振り返ると、そこには三段しかない階段があります。
 階段と怪談がかけてあるのですが、怖いというところはありません。夏が唯一悲鳴を上げるのは、夜、自分の部屋でマンガ(Fantasyコミックという雑誌です)を読んでいるときに、手にページをめくられて、振り向くと誰もいないときだけです。

 あるとき、夏は不思議なお茶会に入り込んでしまい、「知らない子ばかりなのに(中略)懐かしい友だちといるみたいな」感じになります。その中の一人が「みんな帰る時間(ばしょ)はてんでばらばら」と教えてくれます。「それぞれの場所に戻れば すれ違うこともないけど 現在(いま)ここではみんな16・7歳(じゅうろくしち)の女の子で 同じ時を共有してる」
 年を経ると物(この場合は寄宿舎でしょう)にも魂が宿るという日本的な設定なのでしょうか、「さみしいとか かなしいとか そういった感情を ひきよせる」場所なのだそうで、夏は、ホームシックになったことをずばり言われて、うろたえます。

 終わりのほうで古典の先生が階段で転ける場面があります。この学校の OG で、お茶会の時に「古典のサカイ」と名前の出た先生です。「昔っからそそっかしくて よく階段をふみはずす」と聞いて、はっとする夏です。何かを訊ねようとしますが、結局「階段…気をつけて…下さい」としか言えませんでした。
 何を訊ねたかったかは、痛いほどわかります。でも、それは訊いてはいけないことなのでしょう。

 時を超えて集う女の子たちの心情はどんなものなのでしょう。「さみしいとか かなしいとか そういった感情」で引き寄せられたのが発端だとしても、その場での女の子は決してそういった感情を表には出しません、というより負の感情を忘れるために引き寄せられるのでしょう。
 寄宿舎に棲みついている座敷童のようなものというのが、シリーズ三作目の『春の珍客』にありますが、寄宿舎が生み出す夢なのでしょう。


 エフヤマダというかたが OTAPHYSICA というホームページで「紺野キタ『ひみつの階段』の時間論」を書いています。
 http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column19.htm
 おおむね同意しますが、「視点が徹底的に過去形である」は、どうでしょうか。シリーズ二作目の『印度の花嫁』の花田毬絵が中学生の時に見たのは、未来の夏ちゃんだったのではないでしょうか。確かに、それを思い出すのは高校生の毬絵なのですが。しかし、未来の夏ちゃんが、中学生の毬絵を変えたのではないでしょうか。

 時間物のファンタジーというと、真っ先に思い浮かぶのは、『トムは真夜中の庭で』でしょうか。マンガとはいえ、それに匹敵する物だと思います。


 書名『ひみつの階段』1
 出版社 偕成社
 1997年2月 初版第1刷

 書名『ひみつの階段』1, 2
 出版社 ポプラ社 PIANISSIMO COMICS
 2009年8月5日 初版発行
 帯には、「完全版!!」との表記があります。

 2002年4月にポプラ社から三分冊で出版されたようですが、持っていません。

2012年3月10日土曜日

地震から一年

もうなのかまだなのかわかりませんが、一年になります。
 揺れによる被害しかなかったわたしの身の回りですが、津波に遭われたかた、原子力発電所の爆発で避難されているかたは、本当につらい一年だったことと思います。いつになったら普通の暮らしに戻れるのでしょうか。

 今も原発は毎日のようにニュースに登場しています。一度飛び散った放射性物質を集めるのは大変なことです。それに、集められたとしても、その保管は並大抵のことではありません。だからこそ、中間貯蔵施設の設置場所がニュースにもなるのでしょう。
 また、放射線被曝から逃れるために、あちこち移動せざるを得なくて、そのために亡くなったかたも大勢いるようです。

 一方、津波被害を受けた沿岸部のことは、原発に比べてあまりニュースにはなってきませんでした。一年が経つということで、ここ数日は大きく取り上げられていますが。
 瓦礫の撤去も進まず、その量は普段のゴミの20年分以上です。ときどき自然発火もあるようです。被災地にとっては、新たなスタートをしようにもどうしようもないところもあるようです。

 このようなことを考えても、どうしようもないのかもしれません。それでも、生きて行かなくてはならないのです。

 亡くなられた二万人のかたに哀悼の意を表します。


 萩尾望都の『なのはな』を読みました。よくこれだけのことを調べて、マンガにしたものと感心しました。19ページに土壌の汚染除去のために植物を植える話があります。そこからこの本のタイトルが来ているのですが。でも、放射性物質の濃縮された植物はどうするのでしょうか。結局は、防塵装置の付いた焼却炉で燃やし、煙から回収された放射性物質と焼却灰を、どこかに保管しなければならないのでしょう(ひまわりは効果がなかったとか)。
 「サロメ20××」でプルトニウムの半減期は2万4千年、毒が消えるまで10万年は、とあります。これは、初めのプルトニウムの量がわからないと何とも言えないのではないでしょうか? およそ 1/16 弱にはなりますが。
 「かたっぽのふるぐつ」では、公害に対しての揺れ動く心があったのですが、ここでは作者の考えは明快です。

 書名『なのはな』
 出版社 小学館
 出版年 2012年3月12日初版第1刷

2012年2月28日火曜日

遠野一生の『ラプンツェル』

遠野一生は、いまは“一実”名で描いていて、ぶんか社コミックス(B6判)から出ている「ラプンツェル」は新しい名前になっているようです。

 ラプンツェルはご存知のとおり、グリム童話の中のお話です。魔女を親に置き換えると、このマンガの始まりの前に書いてある、「親の束縛から 異性愛をバネに逃れようとする 思春期の娘の心を象徴した民話 と解釈される」になります。
 ところで、このマンガでは、童話と共通するのは、ヒロインの長い(とは云っても身長ぐらいですが)金色の髪だけでしょうか、父親に監禁されているわけでもありません。

 主人公の海(カイ)は8歳の時、ヒロインの鹿乃子に会います。その時の鹿乃子は素っ裸で二十歳前でしょうか、もちろん海は名前さえ知らずにそれっきりになります。
 それから十年、バイオメカニズムを学ぶべく大学に入った海の前に鹿乃子が現れます、十年前と同じ姿で。海は、十年前の人の娘か妹と思います。鹿乃子はバイオメカニズムの沢辺教授を「お父さん」と呼んでいます。

 いろんな事がありますが、海と鹿乃子は普通につきあうことになります。
 海の知らないところでは、教授と鹿乃子の会話で鹿乃子は教授に作られたことが明らかになっています。また、教授は、亡き恋人に似せて鹿乃子を作ったことも明かされています。
 海はバイク乗りが趣味で、鹿乃子を後ろに乗せて海(うみ)を見に行きます。その帰り、飛び出してきた子供を避けようとして、事故を起こします。壊れた鹿乃子の左腕を見て、義手と思う海ですが……。
 教授から鹿乃子は、自分が作った事を聞かされますが、それを聞いても鹿乃子には「全然 嫌悪感を感じなかった(中略) 思い出の女(ひと)が彼女だとわかって なぜかうれしかった」と思う海でした。

 半ば脅されて、教授はアンドロイドを作ることにしますが、海と鹿乃子は設計図の入ったフロッピーディスクを持って、逃げ出します。
 船に乗った二人ですが、鹿乃子は輪廻転生の話をします。そして海が船内の席の空きを見に行った隙に、席にフロッピーディスクとペンダントを残し海に消えてしまいます。
 「機械として生きるよりも人間として死ぬことを選んだのだ」との海の思いがモノローグとして書かれています。

 ペンダントの中に膨大なデーターが入っているのを知り、新たな鹿乃子を作り上げたところでマンガは終わります。

 最後の20ページは、連載時のものとは違っています。こちらの方がスリリングで、終わり方もスマートです。

 疑問に思ったことを書いてみます。
 タイトルが何故「ラプンツェル」なのか。グリム童話(初版)では、塔に閉じ込められたラプンツェルとそこに通ってくる王子が主役です。むしろタイトルとしては「ピュグマリオーン」か、ピュグマリオーンによって作られたという「ガラテイア」の方がふさわしく思えたのです。最初のピュグマリオーンが教授で、二番目が海です。恋人を失った教授が作った鹿乃子、鹿乃子を失い新たな鹿乃子を作る海。そう思ったのです。

 ところが、読み直してみて、「ラプンツェル」の意味がわかったような気がしました。鹿乃子は自分の意志を持っていて、それに基づいて行動をしているわけです。それが「機械として生きるよりも人間として死ぬことを選んだのだ」になるわけなのです。
 自分の意志で王子を塔に招き入れたラプンツェルと、自分の意志で死を選んだ鹿乃子が重なったのでした。そして、この本の最初に書いてあった「親の束縛から 異性愛をバネに逃れようとする 思春期の娘の心を象徴した民話 と解釈される」の意味も納得できたのでした。
 とするなら、最後のページの海が少し寂しそうに見えるのもわかります。


 書名『ラプンツェル』
 出版社 偕成社
 1992年9月 初版第1刷発行

 連載は
 コミックモエ No.9〜No.11(1991年7月〜1992年4月)

2012年2月12日日曜日

倉多江美の『ぼさつ日記』

短編から長編までを手掛ける倉多江美ですが、表題のマンガは39話からなる作品で、作者唯一の週刊誌連載作品とのことです。

 主な登場人物は、中学生の地獄寺ぼさつ、火山灰裾野、留目(とどめ)トメオ、浅梨(せんり)ちゃんで、四人は同じ学年です。ぼさつはお寺の娘で、父は娘からは往生住職と呼ばれて、とーちゃんと呼びなさいといわれています。
 タイトルと登場人物が中学生と云うことから、ラブコメかと思うとさにあらず、シュールなギャグマンガです。カヴァー絵を見ればわかることなのですが。

 第一話は、朝目覚めたぼさつが面倒くさがって、最終回にしようとするところから始まります。とーちゃんに起こされて学校に行くと、美形の転校生・留目が現れます(この頃はイケメンという言い方はなかったのがわかります)。ぼさつはこの転校生に「だめ……ほれちまった」と恋心を抱くのですが……。

 第三話で裾野と浅梨ちゃんが登場します。
 この人の描く人物は極端に言えば、ジャコメッティの彫刻の身体に服を着せたようなものが多いのですが、裾野だけは違います。「どうせあたしはドラムかんよ」と本人が言う体型で描かれています。

 ぼさつと裾野は恋敵になるのですが、迷惑をかけられるのが留目なのです。
 会えばいがみ合うぼさつと裾野ですが、考えが一致すれば手を組むこともあります。それが第十話です。嫌みな女の飼い犬のリードを車に結んでしまうのです。
 12話から15話はぼさつの地獄巡りのお話です。最後は地獄から追い出され生き返るのですが、針山の針を土産に持って帰るのでした。

 23話に登場するのが「ひとりぼっちの悪魔くん」です。ぼさつと友達になり一人ぼっちではなくなります。以後、ほとんどのお話に登場し、ほかの登場人物とも仲良くなります。

 30話のお話が一番印象に残っています。「旅に出た太陽さん」と云うタイトルで、「なぜ毎日ここにいるのだろう」「真理をみきわめるために旅に出よう」と、太陽がいなくなってしまうというものです。みんな困っているところに太陽は戻ってくるのですが。
 一瞬にして太陽が無くなったら、物理学的にどうなるかなどということは、置いておきましょう、ナンセンスマンガですから。

 最終話は登場人物五人の挨拶だけなのですが、最後に全話に登場している太陽さんが挨拶に来るところで終わります。

 このようなギャグマンガあるいはナンセンスマンガが少女マンガ誌に載っていたのは、それだけ少女マンガの懐が広がったからなのでしょう。
 このマンガと同じ頃、『ポーの一族』があったのが、16話からわかります。


 書名 『ぼさつ日記』 倉多江美傑作集2
 出版社 小学館 フラワーコミックス FC-352
 出版年 昭和53年4月20日初版第1刷発行


 別に項目を立てた方がいいのかもしれませんが、気になっていることを少しだけ。

 この頃は少女マンガ誌にも、週刊誌があり、マンガの量としては、少年マンガを凌ぐほどだったかもしれません。思い出すままにあげてみると、「週刊マーガレット」「週刊少女コミック」「週刊少女フレンド」がありました。
 以下、Wikipedia によるとマーガレットは1963年の創刊から1987年、少女コミックは1970年から1977年、少女フレンドは1962年の創刊からから1973年までは週刊誌でした。一番古かった少女フレンドは1991年に月2回から月刊になり1996年の10月号で廃刊になっています。
 なぜ週刊少女マンガ誌がなくなったのか、ネットを見てもよくわかりませんでした。
 マンガの描き手の側からと、読み手の側の双方から考えてみる必要があるのはわかります。
 たとえば次のように書かれています。
 少女漫画は少年漫画よりも絵に重点を置くので、どうしても書き込みや仕上げ処理に時間がかかる。これは描き手の側から見た場合と思います。
 “BOY MEETS GIRL で始まりライバルや障害を乗り越えて両思いになってエンディングという黄金パターンは4コマ漫画以上に固定化されています”については、反論が出されています。恋愛沙汰だけが少女マンガではないので、反論の方がもっともだと思います。
 読み手の側が気が長いというのもありましたが、週刊少年マンガ誌を読む女の子が多いのも事実のようです。
 これについての答えがあるのかもわかりません。ときどき、何故かなぁと思ってみるのがいいのかもしれません。

2012年1月31日火曜日

大島弓子の『詩子とよんでもういちど』

この人のマンガで最初に読んだのは、「綿の国星」です。面白いマンガだなぁ、もっとほかにはないのかなぁと思いました。恥ずかしながら大島弓子を知らなかったのです。
 朝日ソノラマのサンコミックスから何冊か出ているのを見て、買いました。ページをめくって愕然としました。絵が、少女マンガだったからです。綿の国星とは全然違う絵に、本当に同じ人なのかと思ったものです。
 改めて見直してみると、年代が下るにつれて、次第に綿の国星の絵に近づいているのがわかります。

 表題の作品はサンコミックス「誕生!」に入っている作品です。

 「誕生!」は、女子高校生の妊娠を扱ったもので、重いテーマの作品です。母子ともに助かるのかどうか、というところで話は終わっていて余韻が残ります。

 「詩子とよんでもういちど」は、はっきりした年代は書いてありませんが、おそらく第二次世界大戦の前の話のようです。
 詩子の祖父は、病院長です。詩子はおてんばな少女ですが、いとこ政子の婚約者寺内文彦が訪ねてきた日に倒れてしまいます。文彦は院長から詩子は白血病だと聞かされます。
 詩子が気にかかる文彦は、政子との婚約指輪の交換の後で、婚約を破棄してくれといいます。病院を追い出された文彦は、武蔵野のサナトリウムで医者をしています。
 雨の中、詩子はサナトリウムに行きます。文彦にあって倒れた詩子はそのままサナトリウムに入所します。
 サナトリウムには白血病の小さな男の子がいて、詩子と仲良くなります。しかし男の子はしばらくして亡くなります。
 祖父がサナトリウムに来て、ドイツで白血病の治療剤ができたと知らせます。それを学ぶために三年間の留学を文彦に勧めます。しかし詩子を置いていくわけにはいかないと、断る文彦。
 詩子は、文彦が行かなければ一緒にいられるけれど、多くの白血病の患者はどうなると祖父に言われて、文彦をドイツに送り出します。
 しばらく経って(一ヶ月以上)、詩子の病状は悪化します。ドイツで電報を受け取った文彦はすぐに日本に帰ります。しかし船旅なので二週間もかかります。横浜からタクシーで駆けつけて、何とか臨終には間に合います。
 そしてマンガは次の文彦の独白で終わります。
 ぼくの青春は…おわった(中略)ぼくのすべては終わった…

 読んでいて、笑いと最後には涙の、少女マンガの王道を行く作品です。
 ただ、うまくは言えませんが、ありふれた少女マンガとは違う何かがあるからこそ、読んだときから30年経った今になっても引っかかるものがあるように思えるのです。

 なお、白血病が治るようになり始めるのは1960年代後半からとの記述が Wikipedia にあります。


 タイトル 『詩子とよんでもういちど』
 書名 『誕生!』
 出版社 朝日ソノラマ サンコミックス(SCM-310)
 出版年 昭和50年1月25日 初版発行 
  (昭和55年7月30日14版が手元にあるものです)

2012年1月21日土曜日

ちょっと休憩 『リカの想い出 永遠の少女たちへ』

表題の本は、リカちゃん人形の発売20周年を記念して出版された、マンガとエッセイ集です。リカちゃんの発売が昭和42年(1967年)で、本の出版は1986年です。

 目次の代わりにプログラムが載っています。

 ご挨拶と祝辞ーーマンガ家二人(大島弓子とまつざきあけみ)とその他五人(谷山浩子、岡安由美子、群ようこ、美保純、伊藤比呂美)が書いています。
 記念撮影・アルバム・オブ・リカーー1967〜1970 1972〜1974 1977〜1986 リカちゃん人形の写真が載っています。
 談話室ーー第一部から第四部まであり、18名のマンガ家のマンガが載っています。
 もうひとつの同窓会ーー高橋源一郎、日比野克彦、秋山道男、野田秀樹の四人が書いています。
 インフォメーションーー牧美也子ほか二人が書いています。

 牧美也子はある意味ではリカの生みの親です。二ページのエッセイでそのことを書いています。
 挨拶と祝辞のマンガ家二人は、当然のことながらリカちゃん世代ではありません。岡安と美保はリカちゃんで遊んだと書いてあります。

 談話室のマンガ家は、何とか、人形(いろいろな人形があって、それはそれで面白いのですが)に話を持って行こうと苦心しています。実際にリカちゃんと遊んだ人もいるのですが、それはほんの少数です。
 木原敏江は「私の子供時代」のタイトルで二ページを描いていますが、人形は出てきません。坂田靖子は「わたしの博物学的子ども時代」で十ページ描いていて、これにも人形は出てきません。このマンガは印象に残っていて、いかにも彼女らしいと思います。
 子供のころは、うちのまわりは一面のたんぼで、から始まる子供のころの想い出です。川で釣りをしたり、木登りが好きだったり、と外でよく遊んでいたようです。外で遊んでいないときは、うちで本をよく読んでいたとか。幼稚園の時に父親からもらった理科図鑑を、今も持っていると描いてあって、感心したりもしました。最後の大きな齣は、「ときどきうちの前でそら一面の夕焼けを見ると 世界は なかなか広かったのであります」との言葉で終わっています。画面の八割が空で、残光と三日月とねぐらに帰る鳥、そしてたたずむ子供のころの作者が印象的です。

 本のタイトルが「リカの想い出」なのに、人形が全然出てこないマンガを載せたことにも驚きました。編集の香山リカと土肥睦子の度量の大きさに感謝です。

 リカちゃん人形で、リカちゃんハウスで遊ぶことを「ハウスしよう」と言っているのを聞いたときは、気に留めませんでしたが、play house の意味を考えれば、納得のいく言い方です。


 書名『リカの想い出』
 発行所 ネスコ
 発売元 文藝春秋
 1986年7月30日 第1刷

2012年1月11日水曜日

樹村みのりの『菜の花畑のこちら側』

この人のマンガは何から読んだのか記憶にありません。1949年生まれとのことなのでいわゆる24年組のように思えるのです。ですが、デビューを見ると1964年、14歳の時とのことなので、直接には関係がないようです。
 個性的な絵を描く人で、一度見たら忘れることはないでしょう。

 さて、表題の作品は 1〜3 の三つから構成されていて、別冊少女コミックの1975年11月号から1976年1月号までに連載されたとの記載がありました。
 ストーリーは以下の通りです。

 幼稚園の年長さんの女の子、まあちゃん、お母さんとおばちゃん(お母さんのお姉さん)の三人は菜の花畑にある少し広めのおうちに住んでいます。近くには、お母さんの妹のあきおばちゃんが住んでいます。近いこともあって、赤ちゃんを連れてよく遊びに来ます。
 二階に手を入れ、回転の早いことを考慮して学生を下宿させることにします(このマンガが描かれたのは、食事付きの下宿がまだまだ多い頃でした)。男の学生がいいだろうと張り紙をします。
 そこに押しかけてきたのは寮を追い出された(本人に言わせると自主退寮した)四人の女子大学生(モトコ、森ちゃん、ネコちゃん、スガちゃん)です。いろいろとなんだかんだがありまして、四人はまあちゃんのお家の二階に下宿することになります。ここまでが、その1です。季節は春の終わりから夏の初めにかけてでしょうか…。

 まあちゃんがドングリを拾う場面からお話が始まるのが、その2です。森ちゃんとネコちゃんも一緒です。途中でお向かいの水谷さんに会ったりして、お家まで帰ってくると、まあちゃんより少し大きい知らない男の子がいます。
 たけちゃんという子で、あきおばちゃんが預かった、義兄の子とのことです。義兄夫婦の間で、離婚についての話し合いがされることになって、預かったのです。カギッ子で、この機会に人の多い家庭の雰囲気を味わわせたいと思って、連れてきたとのことです。
 なかなか手に負えない子だったのですが、次第に打ち解けていき、遊園地にもまあちゃんと一緒に、四人の大学生のお姉さんに連れて行ってもらいます。遊園地から帰ってくると、家の前にたけちゃんの家の車が止まっています。
 義兄夫婦はもう一度やり直すと言うことで、たけちゃんを連れて戻ります。車が出るまでの間の、まあちゃんの家族および女子大生とたけちゃんの会話がクライマックスなのでしょう。動き始めた車の窓越しに、最後の憎まれ口を叩くたけちゃんです。
 車が去った後の空からは雪が降ってきます。

 その3は、年末から始まります。下宿に残る森ちゃんとネコちゃんは、まあちゃんと一緒に、帰省する二人を見送り、お家に帰ってきます。お母さんとおばさんは、出産の手伝いで親戚の家に出かけるところです。二、三日中には帰ると言って出かけます。
 広い家の中に三人で、まあちゃんは八時半には寝てしまいます。雨が降ってきて、二人は寮の時の怪談話を思い出しています。その時玄関をノックする音がして、浜口つとむという青年が訪ねてきます。おばさんからの電話で、女三人だと心配だろうからと来たと言います。二人は自分の部屋に戻ります。
 次の朝、まあちゃんは一人で寝かされたことに文句を言います。
 つとむ君は一葉の写真を二人に見せて、この人の消息を知らないかと尋ねます。つとむ君と、隣にはきれいな女の人が写っています。たきちゃんと言ってつとむ君は好きだったのですが、「聞き取りにくい声は耳に手をあてて、いく度も聞くので、はずかしくなって心を打ち明ける機会を逃がした」と言います。
 お母さんたちが帰ってくると、青年の姿は消えています。二人の写った写真を見ておばさんは言うのです。つとむ君は二年前の今頃亡くなったこと、たきちゃんは大きな農家に嫁いで、今は幸せに暮らしていると。そして、小さいときの病気がもとで片方の耳が聞こえなかったことを。そのことはつとむ君は知らなかったのでした。
 最後の齣で除夜の鐘が鳴ります。

 以上があらすじなのですが、その1に登場する女子大学生四人の一人ひとりがおのおの個性を十分に発揮して、存在感にあふれています。さらには、目的のためには手段を選ばず(?)、男子学生が下宿するのを阻止しようとする、そのヴァイタリティーには驚かされます。現実にこんな事をする人がいるかどうかは措いておきますが。
 その2では、向かいの水谷さんとはここで初めて会ったことになっていますが、半年以上も経って初めてというのは、なんか変な感じがしました。
 たけちゃんが次第次第に変わっていく様子は、実によく描かれていると思いました。子どもは親の背中を見て育つと言いますけど…。
 その3では、つとむ君はまあちゃんには見えない設定になっていること、お母さんたちが帰ってきたときには姿が消えていることから、たきちゃんを直接に知っている人とは、会えないくらい恥ずかしがりなのかなあと思ったものでした。

 『こちら側』を読み返してみて、あれ、解放区の場面がないと思ったら、『むこうとこちら』でした。まあ、ネコちゃんのノーブラのエピソードなんですけど。

 『菜の花畑のむこうとこちら』の141ページのコラムに四人の名前は?とあります。わたしなりに考えたのですが、森ちゃんとネコちゃんはこの名前でしか登場しません。『むこうとこちら』の125ページから見ると、ネコはミネコの省略なのでしょう。森ちゃんは森絵なのかなあと考えます。伊東愛子のマンガに登場する女の子です。山田ミネコも伊東愛子も、樹村みのりと同じ年の生まれです。


 タイトル『菜の花畑のこちら側』
 書名『ポケットの中の季節2』
 出版社 小学館 フラワーコミックス FC-92
 出版年 昭和52年8月20日初版第1刷発行

 なお、以下の本には続編を含めて載っています。
 書名『菜の花畑のむこうとこちら』
 出版社 ブロンズ社
 昭和55年3月25日初版発行

 デビュー作を含む初期作品集は
 書名『ピクニック』
 出版社 朝日ソノラマ
 昭和54年9月25日初版発行
 として出版されています。1964年から1967年の作品が入っています。


 今日で10ヶ月になります。