2011年2月25日金曜日

ちょっと休憩 『東京キッド』と『心の窓にともし灯を』

 古い唄で恐縮なのですが。

 美空ひばりの『東京キッド』が1950年、ザ・ピーナッツの『心の窓にともし灯を』が1959年暮れ、とのことですが、ザ・ピーナッツを先に聴き、美空ひばりが後になりました。『東京キッド』は10年ほど前に聴いたのですが(その前に聴いたことがあったかもしれません、憶えていないだけで)、「右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチュウインガム」で、『心の窓にともし灯を』を思い出したのです、「ポッケにゃなんにもないけれど」というフレーズを。

 1945年に戦争に負けて、なにもないところから再出発した日本です。それから15年経っても、まだ貧困はつきまとっていたのです。池田内閣で所得倍増計画が閣議決定されたのが1960年12月のことで、翌年度から実施されました。日本は高度経済成長期に入ったのです。その少し前から国民総中流がいわれるようになり、1970年には9割が中流と答えるまでになりました。

 さて、バブルの崩壊から10年ほど経ったころ、日本の失われた10年といわれ始めるときに、『東京キッド』を聴き、『心の窓にともし灯を』を思い出したわけです。この頃は、まさか失われた20年になるとは、思ってもいなかったのですけれども。
 今は、ポケットにはいっぱいいろんなものが詰まっているけど、本当に必要なものは、入っているのだろうかと。ポケットをいっぱいにすることに夢中になって、何かを忘れたのではないのかなぁと。
 以前は空のポッケと夢があったはずなのに、今はふくらんだポケットと、そしてどこかに忘れた夢かなぁなどと考えていたのでした。

 今から10年前を振り返ると、まだポケットにはいろんなものが詰まっていたのですが、それから10年、ますます増えるワーキングプアをみると、ポケットが空になり、夢をなくしてしまった人たちは、どうすればいいのでしょうか。


 はたらけど
 はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
 ぢつと手を見る

 啄木

2011年2月20日日曜日

松本和代の『もな子…しゃべり勝ち!』

 この人の単行本は四冊しか出ていないようです。『もな子…しゃべり勝ち!』は二冊目です。

 高校二年生のもな子の、まぁ言ってしまえば、どたばた恋物語なのです、甘くはないけれども。といっても悲恋ではありませんので、ご安心を。
 主な登場人物は、もな子、親友のカンナ、他校生の樫本くん、北炭先生、そして恋敵の中学生の史織ちゃんの五人です。もう一匹、樫本くんの飼い犬ノリノスケを忘れてはいけませんでした。

 もな子は弁論部に所属していて、弁舌の立つほうだと思っています。そして、将来は環境庁の長官になると張り切っています(環境庁が環境省になったのは2001年です)。
 そんなもな子を心配して、カンナは恋のおまじないのカメを作ることを勧めますが、もな子は、それを一笑に付します。けれど、密かに「4時半の君」と名付けた男性に恋心を抱いているもな子は、カメを作って、その男性に渡そうとします。ところがノリノスケの登場でそれもできず、飼い主の樫本くんと知り合います。
 後日、もな子は知ることになりますが、「4時半の君」は、世界史の北炭先生として、もな子の前に現れ、樫本くんの家に大学生の時から下宿しています。

 この樫本くんは、来るべき食糧危機に備えて、巨大ナスを作る研究をしています。ナスはもな子の好物でもありました。
 あとは、どたばたコメディーになります。
 全体の2/3ほどのところから史織ちゃんが登場します。恋のさや当てが始まるのですが、マンガのタイトルとは違って、もな子は、口では史織ちゃんに敵わないのでした。
 樫本くんに、妹として好きだと言われて落ち込む史織ちゃん、元気づけようとして史織ちゃんに好かれて困り顔のカンナ、そして……。
 ナスの季節が終わり、つぎは巨大大根に挑む二人、話しながら笑いあう二人の後ろでは……でマンガは終わります。

 植物の巨大化以外は、いかにもありそうなお話で、さて何でこんなマンガが印象に残っているのかなぁと思うのですが。
 北炭先生以外の登場人物、特に樫本くんと史織ちゃんの思い込みの激しさが、このマンガの命なのでしょう。たぶん、樫本くんの中では、巨大植物を作るのが一番で、もな子はその次なのでしょう、でも、それはもな子の中ではどうでもいいのかもしれません。きっともな子は、巨大植物を作る夢を持った樫本くんを好きになったのでしょうから。

 絵はいわゆる少女マンガの絵ではありません。よく言えば個性的な絵です。また、マンガのタイトルとは異なり、もな子が誰かにしゃべりで勝つということは滅多にありません。


 書名『もな子…しゃべり勝ち!』
 出版社 集英社  集英社漫画文庫
 昭和56年10月25日 第1刷発行

2011年2月12日土曜日

阿保美代の『真夏に真綿の雪が降る日』

 先日、漆原友紀の『水域』を読んでいてふと思い出したのが、阿保美代の表題のマンガでした。『水域』は、上下470ページの大作ですが、『真夏に真綿の雪が降る日』は、たった8ページの小品です。でもその中に詰まっているものは、とても大きいのです。

 阿保美代のファンのかたが、以下のサイトを作っています。
 http://abosan.web.fc2.com/top.html

 8ページのあらすじというのもどうかと思うのですが、これがないと感想が書けませんので。

 あやは、朝、目を覚まします。「遠くのほうで かねの音や たいこの音が 聞こえる(中略)きょうは 特別な日だ!」ということで、ひとりで、「きれいに かざられた きょうの料理」を食べ、「大好きな 朝顔の もよう」のゆかたを着ようとします。「おかあちゃん 帯 むすべない」と呼んでも、「みんな でかけてる きょうは 特別な日 だからだ」と、涙ながらに納得します。
 外へとでかけますが、誰にも会えません。学校に行っても誰もいません。村を見つめながら、あやは考えます。「かねとか たいこの音 たしかに 聞こえるのに みんな どこさ いるんだべ」と。
 帯がとけて泣いているあや、動くものが目に入ります。こわれた手風琴とこわれた人形でした。その人形はあやが無くしたと思っていたものです。あやは人形を連れ帰ります。おなかいっぱい食べ、「あやは 人形と いっしょに ねむる」 と、ここまでで6ページです。

 以下の2ページで語られることが表題の意味になります。
 「雪のように 光る あわい あわいものが そっと ふってきて やさしく あやを つつむなかで あやは ねむる……」
 たった10で、はやりやまいで逝ってしまったあやの墓参りにきている母親と、あやぐらいの年頃の子ども(あやねえちゃんと子どもは言っています)。特別の日とは、お盆のことだったのがわかります。

 あやの亡くなった後で、村はダムの底に沈みます。
 新しく作ったお墓にあやの骨はあるのですが、あやが生まれ育って、そして死んでいったダムの底の家に、あやの魂は帰ってきているのではと、母親は言うのです。

 「くる年も くる年も その子は 水の中の村さ たった ひとり 帰ってきて ひとり 遊ぶ(中略)泣きつかれて 真綿の雪が ふりつもるまで……」とお話は終わります。

 繰り返しになりますが、最後の二ページで、なぜあやがひとりぼっちなのかがわかるのです。ところで、「みんな どこさ いるんだべ」との、あやの思いはどこに行くのでしょうか、「真綿の雪が ふりつもるまで……」続くのでしょうか。それでは、あまりに救いがないと思えるのです。
 あるいは、将来母親があやのもとへいったときに、あやは救われるのでしょうか。
 一度目はすらっと読めたのに、読み返したときには、あちこち、つっかえてしまいました。なぜあやがひとりぼっちか、わかっていて読むと、また、違った思いが湧いてくるのです。

 ダムに沈むということ以外にも、『水域』との共通点はあるようですが。

 投稿の時季が半年ずれていますが、そのへんは大目にみてください。


 タイトル『真夏に真綿の雪が降る日』
 書名『アボサンのふるさとメルヘン2』
 出版社 講談社
 昭和57年11月15日第一刷発行

2011年2月8日火曜日

粕谷紀子の『花園を求めて』と『花園を見た日』

 ふたつの作品を取り上げたのは、同じような少女を取り扱いながらも、まるで違った結末になっているからなのです。
 『花園を求めて』は1975年ちゃお秋の増刊号、『花園を見た日』は1978年プチコミック早春の号に載ったものです。『花園を見た日』はプチコミックで読みました。これはこの号の特集が「倉多江美の世界」でしたので買ったのです。『花園を求めて』はその後の1978年3月に出版された単行本「水の中の星」で読みました。
 『花園を見た日』は単行本には収録されていません。
 ページ数ですが、『花園を求めて』は25ページ、『花園を見た日』は48ページです。『花園を求めて』の二倍の長さになった分、『花園を見た日』のほうが細かいところまで描かれています。

 それではこのふたつの作品をみていきましょう。以下『花園を求めて』は『求めて』、『花園を見た日』は『見た日』と記すことにします。

 表紙の絵はかなり違いますが、それは置いておきます。
 まず最初のページですが、両方とも山を見つめる少女のななめ後ろの絵から始まります。『求めて』は山が遠景にありますが、『見た日』では中景になっています。また少女の視線が『求めて』では山の頂を見つめていて少し頭が上を向いているようです。『求めて』では風は少女の前から吹いていますが、『見た日』では後ろから吹いています。
 一番大きな違いは、『求めて』では雲間から漏れる、ほのかな光が太陽を暗示しています。一方の『見た日』では黄色い弱々しい太陽が描かれているだけです。この太陽は薄い雲を通して見た太陽のようです、輪郭がぼやけていてかすかな光が漏れているようにしか見えません。これが実は結末を暗示しているのですが、最初に読んだときには少し絵が違うといった程度にしか思いませんでした。
 「この冬枯れの 荒涼とした土地の どこに 花園があるだろう ーー?」「聞こえるのは むなしく 荒野を吹きわたる 風の音ばかり」という書き出しで二つのお話は始まります。
 『求めて』には、さらに「1840年 フランスの片いなか」とあります。

 主な登場人物は主人公の少女テレーズ、農園に新たに雇われた中年の男(ジェローム、『求めて』には名前は出てきません)、主人公が働いている農園の女主人(イヴォンヌ、『求めて』には名前は出てこなくて、二コマだけ姿が描かれています)、女主人の甥だという若いツバメ(アルフォンス、『求めて』には名前は出てきません)の四人です。

 テレーズはそれなりの家庭に生まれますが、父が亡くなり、零落していきます。それでも母は平気な顔をしています。なぜ平気なの? と幼いテレーズに問われて、母は答えます。「心の中に 幸せな 思い出を(中略)それはそれは 美しい花園の ようなもの」を持っているからだと。
 物語の始まる前の年に母も亡くなり、テレーズは農場で働き出します。

 以下、まず『求めて』のあらすじです。
 いつも花園を夢見ているテレーズは、周りから孤立しています。若いツバメに乱暴されそうになったところを、中年の男に助けられます。男はテレーズに言います。「なぜ街に行かないんだ?」 それに対してテレーズは答えます。「花園を待っているの」と。
 その後の会話で、この男が10年前に妻を残して街に出た、この農園の主だとわかります。しかし、男は「十年前に家を出た男だ」といって名乗り出ようともしません。
 クリスマスのミサに、農園に残されたテレーズは、またも若いツバメにおそわれます。このときにも中年の男が農園に残されていて、テレーズを助けようとします。男は銃を取り出すのですが、止めようとするテレーズ、その隙を突いてツバメは男に襲いかかり、男を撃ってしまいます。
 瀕死の男は次のように言います。「きみは花園をみつけたろう?(中略)今度は広い世界へ ほんとうの幸せをさがしに行くんだ」
 そして、テレーズが街に出るところでお話は終わります。

 次いで『見た日』のあらすじです。
 出だしはほとんど変わりありません。周りから孤立するテレーズを見て男は思います。「おれは10年かかった"もっとべつの生活"などありはしないということを悟るまで」
 寒い地下室に誤って閉じ込められたテレーズは、半死半生で助け出されます。ようやく気がついたテレーズですが、頑なな心はそのままです。けれど男にこう言われるのです。「もっとべつの生活なんてありゃしない!! 今が! ここが! あんたのまわりの人間たちが!! あんたの生活さ!」
 それ以後、周りに心を開いていくテレーズ、奉公人仲間ともきちんと交流できるようになっていきます。英語を読めることを知った女主人から、ジェロームの残していった英語の本を読むように命じられるテレーズ、英語のわからない女主人には子守歌代わりだったのですが、眠りの中でジェロームとつぶやきます。
 クリスマスのミサに、農園に残されアルフォンスに襲われるテレーズ、ジェロームはテレーズを助けようと銃を取り出そうとするのですが…。「あの女は8年間おまえを待ち続けていたんだからな」とのアルフォンスの言葉を聞き、隙ができて、アルフォンスに撃たれてしまいます。
 瀕死のジェロームをみつけたイヴォンヌは、許しを請うジェロームに言います。「やっと 帰ってきて くれたのね それだけで 十分よ!!」
 横たわるジェロームを支えるテレーズと、イヴォンヌのほおに手を添えるジェロームの場面でお話は終わります。そこに添えられている言葉は「花園は ひとの心の中に あるのかもしれない……」

 『見た日』は、ここで終わっているのですが、テレーズは街に出ることもなくたぶん農園で暮らすのでしょう。

 これを書くために『見た日』を読み返してみて、書き始めたときと少し違うことに気づきました。最初のページに弱々しい太陽、と書いたのですが、テレーズの影がくっきりと描かれていました。決して弱い光ではないようなのです。
 描かれた順番から考えても、「花園はひとの心の中にある」が作者の言いたいことなのかなあと思ったのです。

 しかしそれでも、と思うのです。チルチルとミチルは、青い鳥は自分の家にいると気がつくのですが、それでは、二人の夢の中の旅は無意味だったのかと。
 決してそんなことはありません。自分の鳥が青いと気づくのは自分の力で気づく、それが大事なことのように思えるのです。
 『見た日』でテレーズが変わったのが、ジェロームに言われたからだけだとしたなら、問題でしょう。ジェロームに言われたことがきっかけになって、自分で考えた結果なら、それでいいのですが。

 タイトル『花園を求めて』
 書名『水の中の星』
 出版社 大都社
 昭和53年3月10日初版発行

 タイトル『花園を見た日』
 プチコミック早春の号
 出版社 小学館
 昭和53年3月1日発行