2011年2月8日火曜日

粕谷紀子の『花園を求めて』と『花園を見た日』

 ふたつの作品を取り上げたのは、同じような少女を取り扱いながらも、まるで違った結末になっているからなのです。
 『花園を求めて』は1975年ちゃお秋の増刊号、『花園を見た日』は1978年プチコミック早春の号に載ったものです。『花園を見た日』はプチコミックで読みました。これはこの号の特集が「倉多江美の世界」でしたので買ったのです。『花園を求めて』はその後の1978年3月に出版された単行本「水の中の星」で読みました。
 『花園を見た日』は単行本には収録されていません。
 ページ数ですが、『花園を求めて』は25ページ、『花園を見た日』は48ページです。『花園を求めて』の二倍の長さになった分、『花園を見た日』のほうが細かいところまで描かれています。

 それではこのふたつの作品をみていきましょう。以下『花園を求めて』は『求めて』、『花園を見た日』は『見た日』と記すことにします。

 表紙の絵はかなり違いますが、それは置いておきます。
 まず最初のページですが、両方とも山を見つめる少女のななめ後ろの絵から始まります。『求めて』は山が遠景にありますが、『見た日』では中景になっています。また少女の視線が『求めて』では山の頂を見つめていて少し頭が上を向いているようです。『求めて』では風は少女の前から吹いていますが、『見た日』では後ろから吹いています。
 一番大きな違いは、『求めて』では雲間から漏れる、ほのかな光が太陽を暗示しています。一方の『見た日』では黄色い弱々しい太陽が描かれているだけです。この太陽は薄い雲を通して見た太陽のようです、輪郭がぼやけていてかすかな光が漏れているようにしか見えません。これが実は結末を暗示しているのですが、最初に読んだときには少し絵が違うといった程度にしか思いませんでした。
 「この冬枯れの 荒涼とした土地の どこに 花園があるだろう ーー?」「聞こえるのは むなしく 荒野を吹きわたる 風の音ばかり」という書き出しで二つのお話は始まります。
 『求めて』には、さらに「1840年 フランスの片いなか」とあります。

 主な登場人物は主人公の少女テレーズ、農園に新たに雇われた中年の男(ジェローム、『求めて』には名前は出てきません)、主人公が働いている農園の女主人(イヴォンヌ、『求めて』には名前は出てこなくて、二コマだけ姿が描かれています)、女主人の甥だという若いツバメ(アルフォンス、『求めて』には名前は出てきません)の四人です。

 テレーズはそれなりの家庭に生まれますが、父が亡くなり、零落していきます。それでも母は平気な顔をしています。なぜ平気なの? と幼いテレーズに問われて、母は答えます。「心の中に 幸せな 思い出を(中略)それはそれは 美しい花園の ようなもの」を持っているからだと。
 物語の始まる前の年に母も亡くなり、テレーズは農場で働き出します。

 以下、まず『求めて』のあらすじです。
 いつも花園を夢見ているテレーズは、周りから孤立しています。若いツバメに乱暴されそうになったところを、中年の男に助けられます。男はテレーズに言います。「なぜ街に行かないんだ?」 それに対してテレーズは答えます。「花園を待っているの」と。
 その後の会話で、この男が10年前に妻を残して街に出た、この農園の主だとわかります。しかし、男は「十年前に家を出た男だ」といって名乗り出ようともしません。
 クリスマスのミサに、農園に残されたテレーズは、またも若いツバメにおそわれます。このときにも中年の男が農園に残されていて、テレーズを助けようとします。男は銃を取り出すのですが、止めようとするテレーズ、その隙を突いてツバメは男に襲いかかり、男を撃ってしまいます。
 瀕死の男は次のように言います。「きみは花園をみつけたろう?(中略)今度は広い世界へ ほんとうの幸せをさがしに行くんだ」
 そして、テレーズが街に出るところでお話は終わります。

 次いで『見た日』のあらすじです。
 出だしはほとんど変わりありません。周りから孤立するテレーズを見て男は思います。「おれは10年かかった"もっとべつの生活"などありはしないということを悟るまで」
 寒い地下室に誤って閉じ込められたテレーズは、半死半生で助け出されます。ようやく気がついたテレーズですが、頑なな心はそのままです。けれど男にこう言われるのです。「もっとべつの生活なんてありゃしない!! 今が! ここが! あんたのまわりの人間たちが!! あんたの生活さ!」
 それ以後、周りに心を開いていくテレーズ、奉公人仲間ともきちんと交流できるようになっていきます。英語を読めることを知った女主人から、ジェロームの残していった英語の本を読むように命じられるテレーズ、英語のわからない女主人には子守歌代わりだったのですが、眠りの中でジェロームとつぶやきます。
 クリスマスのミサに、農園に残されアルフォンスに襲われるテレーズ、ジェロームはテレーズを助けようと銃を取り出そうとするのですが…。「あの女は8年間おまえを待ち続けていたんだからな」とのアルフォンスの言葉を聞き、隙ができて、アルフォンスに撃たれてしまいます。
 瀕死のジェロームをみつけたイヴォンヌは、許しを請うジェロームに言います。「やっと 帰ってきて くれたのね それだけで 十分よ!!」
 横たわるジェロームを支えるテレーズと、イヴォンヌのほおに手を添えるジェロームの場面でお話は終わります。そこに添えられている言葉は「花園は ひとの心の中に あるのかもしれない……」

 『見た日』は、ここで終わっているのですが、テレーズは街に出ることもなくたぶん農園で暮らすのでしょう。

 これを書くために『見た日』を読み返してみて、書き始めたときと少し違うことに気づきました。最初のページに弱々しい太陽、と書いたのですが、テレーズの影がくっきりと描かれていました。決して弱い光ではないようなのです。
 描かれた順番から考えても、「花園はひとの心の中にある」が作者の言いたいことなのかなあと思ったのです。

 しかしそれでも、と思うのです。チルチルとミチルは、青い鳥は自分の家にいると気がつくのですが、それでは、二人の夢の中の旅は無意味だったのかと。
 決してそんなことはありません。自分の鳥が青いと気づくのは自分の力で気づく、それが大事なことのように思えるのです。
 『見た日』でテレーズが変わったのが、ジェロームに言われたからだけだとしたなら、問題でしょう。ジェロームに言われたことがきっかけになって、自分で考えた結果なら、それでいいのですが。

 タイトル『花園を求めて』
 書名『水の中の星』
 出版社 大都社
 昭和53年3月10日初版発行

 タイトル『花園を見た日』
 プチコミック早春の号
 出版社 小学館
 昭和53年3月1日発行

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