先日、漆原友紀の『水域』を読んでいてふと思い出したのが、阿保美代の表題のマンガでした。『水域』は、上下470ページの大作ですが、『真夏に真綿の雪が降る日』は、たった8ページの小品です。でもその中に詰まっているものは、とても大きいのです。
阿保美代のファンのかたが、以下のサイトを作っています。
http://abosan.web.fc2.com/top.html
8ページのあらすじというのもどうかと思うのですが、これがないと感想が書けませんので。
あやは、朝、目を覚まします。「遠くのほうで かねの音や たいこの音が 聞こえる(中略)きょうは 特別な日だ!」ということで、ひとりで、「きれいに かざられた きょうの料理」を食べ、「大好きな 朝顔の もよう」のゆかたを着ようとします。「おかあちゃん 帯 むすべない」と呼んでも、「みんな でかけてる きょうは 特別な日 だからだ」と、涙ながらに納得します。
外へとでかけますが、誰にも会えません。学校に行っても誰もいません。村を見つめながら、あやは考えます。「かねとか たいこの音 たしかに 聞こえるのに みんな どこさ いるんだべ」と。
帯がとけて泣いているあや、動くものが目に入ります。こわれた手風琴とこわれた人形でした。その人形はあやが無くしたと思っていたものです。あやは人形を連れ帰ります。おなかいっぱい食べ、「あやは 人形と いっしょに ねむる」 と、ここまでで6ページです。
以下の2ページで語られることが表題の意味になります。
「雪のように 光る あわい あわいものが そっと ふってきて やさしく あやを つつむなかで あやは ねむる……」
たった10で、はやりやまいで逝ってしまったあやの墓参りにきている母親と、あやぐらいの年頃の子ども(あやねえちゃんと子どもは言っています)。特別の日とは、お盆のことだったのがわかります。
あやの亡くなった後で、村はダムの底に沈みます。
新しく作ったお墓にあやの骨はあるのですが、あやが生まれ育って、そして死んでいったダムの底の家に、あやの魂は帰ってきているのではと、母親は言うのです。
「くる年も くる年も その子は 水の中の村さ たった ひとり 帰ってきて ひとり 遊ぶ(中略)泣きつかれて 真綿の雪が ふりつもるまで……」とお話は終わります。
繰り返しになりますが、最後の二ページで、なぜあやがひとりぼっちなのかがわかるのです。ところで、「みんな どこさ いるんだべ」との、あやの思いはどこに行くのでしょうか、「真綿の雪が ふりつもるまで……」続くのでしょうか。それでは、あまりに救いがないと思えるのです。
あるいは、将来母親があやのもとへいったときに、あやは救われるのでしょうか。
一度目はすらっと読めたのに、読み返したときには、あちこち、つっかえてしまいました。なぜあやがひとりぼっちか、わかっていて読むと、また、違った思いが湧いてくるのです。
ダムに沈むということ以外にも、『水域』との共通点はあるようですが。
投稿の時季が半年ずれていますが、そのへんは大目にみてください。
タイトル『真夏に真綿の雪が降る日』
書名『アボサンのふるさとメルヘン2』
出版社 講談社
昭和57年11月15日第一刷発行
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