2023年12月5日火曜日

ささやななえの『私の愛したおうむ』

  半世紀前のマンガです。とはいえ内容は現代にも十分通じるものがあります。まま母とうまく行っていない中学三年生の嶋田みちこが主人公です。

 生みの母が亡くなり新しい母をむかえるみちこです。よろしくねと言われて嬉しそうな顔をしています。しばらくして男の子が産まれます。まま母とその友人の会話が聞こえてきます。「自分の子の方がかわいいでしょ」「そりゃそうよ!(中略)あれでかわいかったらまだ愛情もわくんだけどね」

 学校で禁止されているアルバイトをして貯めたお金で一羽のおうむを買います。そのおうむは一つの言葉しか言いません「アイシテル」。

 クラスの大杉くんに日曜日に遊園地に誘われます。その日は土砂降りですが、雨の中を出掛けるみちこ。雨の中、一時間待ち、帰ろうとすると声をかけられます。まさかと思って来てみた大杉くんでした。大杉くんは喫茶店で明日おうむを見に来ることを約束します。

 大杉くんは、みちこがお茶を淹れるために座を外したスキにおうむに「オタケサン オハヨウ」を教えます。それを見てみちこは大杉くんを追い出します。

 翌日学校に行くと、「アイシテル」と級友からからかわれます。みちこは大杉くんの頬を思いっきり平手打ちをします。「うそつき!なにが友だちよ‼︎」 おうむとどこかに行こうとうちに急ぐみちこですが、弟が高い所に吊ってある鳥籠を椅子に登って取ろうとして鳥籠ごと椅子から落ちてしまいます。そのはずみにおうむは死んでしまいます。死んだおうむを抱えて飛び出すみちこ、そこに大杉くんが。大杉くんを振り切って掛け出すみちこですが、土手を降りるときに滑っておうむを川に流してしまいます。おうむを追いかけようとするみちことそれを押さえる大杉くん。34ページの土手に座る二人の場面では雨が上がっています。

 昔、ネットで読んだのですが、最初はみちこを死なすプロットだったのが、暗くて救いがないから変えてくれと編集者から言われたとのこと。確かに死んでしまえばそれでおしまいですが‥‥。 

 椎名篤子の「凍りついた瞳」をマンガ化したのも納得できました。「私の愛したおうむ」の17ページにひとりごととして「わたしの心の体験をそのまま作品にしたようなものです」とあります。

 何十年かぶりに読み返してみました。今回読み返してみて、こんなにも黒が多用されていることに改めて気付かされました。ささやななえといえば「おかめはちもく」には黒は多用されてなかったような気が‥‥。今回もうんうんそうだよなぁと読んでいました。みちこがまま母とうまくやる方法はなかったのかと考えましたが、14ページのまま母とその友人たちの会話を聞いてしまった以上は無理なのかなと。大人なら聞かなかったことにして、なんとか過ごすかもしれません。しかし(多分)小学校の高学年のみちこにはそれは無理なことでしょう。命は助かったもののこれからのみちこの行く末を思うと、暗澹たる気持ちになってしまいます。

 この本の最後にはデビュー作の『かもめ』が載っています。


書名 『私の愛したおうむ』 花とゆめCOMICS HC-30

出版社 白泉社

出版年 1975年12月20日 初版発行 手元にあるものは1976年5月20日 2版

2023年4月30日日曜日

柿沼こうたの『ゆうれい色の日常』

  今回取り上げるのは比較的新しいマンガです。本屋でタイトルをみて手に取ってみると、傘を差している女の人とゆうれいのかわいい絵、そして帯の惹句で買いました。最初の「踏切1」を読んで買ってよかったと思いました。 

 190ページで26の短編が載っています。長いものでも12ページです。どの作品にも幽霊が出てきますが、どの幽霊ももちろん怖くはありません。登場するのはほとんどが寂しい幽霊です。と云うことで、少し中を見ていきます。

 まずは「踏切」からです。このマンガは1〜4まであり、第1話、第6話、第13話そして最終話(26番目)に載っています。「踏切1」では昔踏切で死んだ女の人の幽霊が出てきます。その踏切の側で雨の日の夕方に傘を差して誰かを待っているような女の人がいます。誰も来ないなんて可哀想と幽霊は思うのですが、ある雨の日、夜になっても雨が止まず幽霊は女の人に声をかけられます。「今日は雨が強いしウチくる?」 かわいそうな人なんかひとりもいなかった でお話は終わります。「踏切2」は猫の幽霊です。この猫は生きていた時に生きていた時の踏切の幽霊の人に助けられていたのです。「踏切3」では次第に幽霊が見えにくくなっていく女の人と幽霊とのすれ違いに涙する二人です。「踏切4」は最後に書きます。

 どれをとっても面白いのですが、その中からいくつか取り上げてみます。第3話「やまびこ」ではやまびこの正体が幽霊なのを知った女の子のお話です。成長して子どもを連れて帰省した女の人が大きくなった町(幽霊と出会った場所まで町は拡がっています)で山に向かって叫びますがやまびこは返ってきません。子どもがおーいと叫ぶと小さく返ってきます。「まだどこかで見守っているんだね」と涙する母親です。 第4話「病院」は黒い影と入院している女の子のお話です。女の子に目が見えないと言われ、黒い影は女の子の前に現れていろんな話をします。明日は女の子の手術と聞いて、黒い影は、目が見えるようになったら自分を怖がる、それならいっそこの手でと考えるのですが、女の子の「治っても私たち友達だよね」にはっとします。「心まで化け物になろうとした‥‥ もうあなたに会う資格はない‥‥」と姿を消してしまいます。退院の前の日、黒い人影は最近現れないと聞いて「お互い嘘ついちゃったね‥‥」と涙する女の子。女の子の嘘はここに書かなくても分かるでしょう。 第10話「地蔵」では60年の時を経て、助けた女の子の孫に恩返しをされる幽霊の話、第17話「橋」では橋を渡って幽霊に会いに来る女の子、その橋も取り壊され、夜に合図を送っていた女の子も10年、20年と経て合図も消え100年後には集落も無くなってしまいます。「ひとりになったか」と思う幽霊ですがそこに老婆の幽霊が現れて言います。「もう手ふらなくてすむね」と。

 「踏切4」ではそろそろいこうと決心した幽霊が愛し愛された人たちに別れを告げ、待っていた猫の幽霊を胸に抱え消えるのですが、消える寸前でこちらを振り向いて言うのです。「いってきます」

 悪意を持った幽霊はいません。第4話の黒い人影だけが悪意をなそうとするのですが、女の子の一言で改心します。幽霊がこんなにも優しく、寂しい心を持つのなら幽霊と友達になるのも悪くないのかも知れないなどと思わされます。「踏切4」の「いってきます」には「いってらっしゃい」と声をかけたくなります。この会話には帰ってくることが前提としてあるはずなのですが。でも、終わりが「さよなら」では何の余韻も残らないしなぁと。

 幽霊の話なのに登場する幽霊はどれも可愛くて、こんな日常なら悪くないなぁなどと思うのです。絵としてはカワイイ系の絵ですが個性的な絵で内容に合っていると思いました。

 このマンガはネットで配信したものを単行本にしたものです。


書名『ゆうれい色の日常』

発売元 株式会社小学館クリエイティブ

発行所 株式会社ヒーローズ

出版年 2022年12月31日第1刷発行

 

2023年3月11日土曜日

地震から12年

 今日は天気が良く、暖かな日です。 12年前のこの日は雪のちらつく寒い日でした。星空を眺めることもなく、懐中電灯の灯りで部屋の中を確認して、狭くなった部屋の蒲団でとりあえず眠ろうとしたことを思い出します。

 十三回忌と云うことで、より一層思い出されることも多いのでしょう。震災関連死を含めて22,000名を超える方が亡くなりました。ところで、宮城県の2023(令和5)年度予算案の復旧・復興対策費は驚くほど小さくなりました。県としてはそろそろ手を引きたいのかも知れません。物理的な復興はほとんど終わりなのでしょう。けれど心に傷を負った人たちは、と思うと‥‥。

 ところで、東北三県以外の青森、茨城、千葉はどうなっているのでしょうか。ほとんど話題にならないようですが。

 地震といえば、一ヶ月ほど前に、トルコで直下型地震がありました。トルコとシリアで52,000名を超える死者が出ているとのことです。シリアは内戦の中にあって、被害は反政府勢力のところに集中していて支援物資が届きにくいとのことで心配です。トルコでは建物の被害が相当あるようです。圧死された方が多いとのことです。トルコの耐震基準は日本と同程度とのことなのに何故と疑問に思いました。今の耐震基準になったのは1999年とのことで、それ以前の建物が多かったこと、そして日本ではほとんど考えられないのですが、基準を無視した建物がかなりあったとのことでした。

 阪神・淡路大震災の時は建物の真ん中の階で屈曲したものが多かったのですが、日本でもトルコのようなパンケーキクラッシュのような事があるのでしょうか。

 今年は関東大震災から百年です。半年もしないうちに話題に上る事でしょう。


 マンガの事を書くのが目的のこのコーナーです。一年前にも、じんのあい の『星の輝き、月の影』に触れましたが、3.11に間に合わせるように2巻(最終巻)が出ました。震災と原発事故という二重の苦しみに見舞われた福島の物語です。

 昨年三月の地震では12年前の地震には耐えた本棚が壊れてしまいました。

2023年2月12日日曜日

松本和代の『青空・スキップ』

 この作者のお馴染みの女子高校生のお話です。 作品名は「青空♡スキップ」とハートマークが入っています。

 主人公の秋美は引っ込み思案で、中学時代には近所に住む甲斐今日子以外に友人と呼べる人はいません。引っ込み思案を治そうとする秋美です。ところが甲斐ちゃんは春休みに町の反対側に引っ越します。父親の海外勤務に母がついて行くことになり、親戚の家に預けられることになったためです。春休みの間に甲斐ちゃんを訪ねる秋美ですが‥‥‥。途中でそれとは知らず甲斐ちゃんの従兄の大沢聖一に出会いからかわれるのです。

 色々あって聖一を好きになっていく秋美ですが、ライバルと思しき二年生が現れたりとかがあったりしますが、最後は聖一が秋美の頬にキスして終わります。

 この人のマンガは紆余曲折がありながらもハッピーエンドなので、その意味では安心して読めます。秋美の引っ込み思案は少しは良くなったのかなあと思います。このマンガに登場する大人は秋美の母と聖一の父の二人だけですが、それぞれ変わった(?)性格です。マンガには出てきませんが、甲斐ちゃんの親も面白そうな人のようです。甲斐ちゃんが「あたしのズボラな性格は親ゆずり!!」と言っているほどですから。

 このマンガは昭和56年(1981年)に描かれたものです。初めのほうに電話が掛かってくる場面があります。慌てて階段を駆け下りる秋美です。読み返して、このシーンは今の若い人には理解しづらいのではと思ったのです。携帯電話の普及する前は、電話は一家に一台でした。友だちに電話する時には、誰が出るのか分からずハラハラドキドキしたものでした。

 上記のような細かい点はさておいて、今でも結構読めるマンガだと思います。

 112ページの食事をしている秋美に母が言う「ひじなんかついちゃって」を見て、子供の頃「食事のとき肘をつくな」と母に言われたことを思い出しました。今の親はそんなことを言うのかなぁ。



書名 『青空・スキップ』 マーガレット・レインボー・コミックス 114

出版社 創美社発行・集英社発売

出版年 1982年5月30日初版発行

2022年12月5日月曜日

北原文野の『瞳に映るは銀の月』

  同じ作者の『夢の果て』の続編です。Pとはperplexer(混乱させる者)で超能力者のことを指します。

 「妖精計画(PROJECT FAIRY)」と「地上の園(MESSAGE)」の二部からなり、「妖精計画」ではヒロインのミリアム・シュレールの10歳の誕生日から始まって、15歳までのお話です。「地上の園」はミリアムが26歳の6月6日までです。

 まずは「妖精計画」です。ミリアムの夢〜三日月と夜空の星々、そして木の十字架のお墓の夢〜からお話は始まります。一章では10歳の誕生日に自分が他人の心を読む(テレパス)Pである事に気付いたミリアムですが、警察のP科の、自身もテレパスPのリー・カールセンに捕まります。ミリアムは特別秘密警察(SSP)の一員になる事で命は助かります。その場にはゲオルグIII世も現れます。ゲオルグIII世が街で見かけたミリアムはIII世の亡くなった妹イリィにそっくりで、III世は気にしていたのです。

 二章・三章では学校を転々として、Pを捜すミリアムですが、転校生としての存在を記憶処理で在校生からは消されているはずなのに、元の学校に転校すると同級生だったリュシアンから声を掛けられます。リュシアンの家に行った時に、リュシアンの姉が念動力(サイコキネシス)Pなのを知ります。四章でリュシアンの前で歩道橋から飛び降り自殺しようとするミリアム、その時リュシアンの念動力が発現してミリアムは助かります。リュシアンはP科に捕まり、その念動力の強さでSSPになることを強制されます。拒むリュシアンですが、ミリアムの説得で生き延びます。その時にミリアムはリーが自分を助けるためにSSPになることを説得した事に気付きます。五章では遂に地上に脱出する二人が描かれています。

 「妖精計画」の妖精とは、姿を現しては記憶に残らず姿を消すもののことです。三章で妖精ではなく幽霊だと言うミリアムです。

 次に「地上の園」です。一章の初めは地上で暮らすミリアムたちの平和な様子ですが、Pの探索を進めるゲオルグIII世によって見つかってしまいます。たまたま不在だった五人を除いて、皆、殺されてしまいます。ミリアムはIII世によって地下に連れ戻されます。二章の終わりにミリアムは赤ん坊を産み、女帝になります。その子キアラの父が誰なのかミリアムにはわかりませんが、キアラのために生きる決意を固めます。III世が不要とみなしたテレパシー増幅装置を使って、リーや他のPに次のP狩の予定を連絡するミリアムです。地上との接触を試みると、リュシアンとミリアムとの子供アティカとのコンタクトに成功します。III世とミリアムは月に一度のテレビ放送「今日のお言葉」を自宅イリィ・ヴィラ(水晶宮)から生放送をする事になります。この放送でP科の実態と自分とIII世がPであることを暴露します。そしてP科の廃止を宣言します。放送終了後、怒り狂ったIII世はミリアムを殺そうとしますが、イリィのテープを燃やされて慌てふためき、現れたイリィの幻影を助けようとして倒れてきた柱の下敷きになります。キアラがリュシアンとの子であることを伝えてIII世は息絶えます。最後の三ページは何か付け足しのような気がして‥‥。


 このお話のテーマは人間と人間でないものとの共存なのですが、なかなかに重いものです。生まれ落ちたときにPであるならば分けるのは簡単でしょう。人間とそうでないものとを別々にすれば良いだけです。お話を読むと、厄介なことにPは後天的なもののようです。とすれば、どうすれば良いのでしょうか。Pになった時点で殺してしまうか、別のところに追いやるか(地上の園はPが自分で作ったものですが)、共存するかになるのですが。

 これを読んだときには、理想は共存だけれど、それが無理なら互いに接触しないで暮らすのかなぁと考えていました。「地上の園」の183ページのIII世の「人間は自分と少しでも異なる者を嫌うからな」とのセリフがあります。確かにそれはわからないではないです。

 196ページのIII世のイリィへの思いもわかります。だからこそIII世はミリアムを抱くことができなかったのでしょう。

 今年のノーベル賞受賞者のスファンテ・ペーボが、DNA分析からホモ・サピエンスはネアンデルタール人やデニソワ人との交雑がみられるとの発表のニュースを聞いたときに(この話は10年ほど前に読んだ記憶があります)、このマンガが思い浮かびました。同じDNAを持った者同士のはずだから、うまくいかないはずがないのではと思ったのです。本当にPのようなものが現れたら、どうするのか自分では分からないのですが。


書名 『瞳に映るは銀の月』

出版社 秋田書店

出版年 「妖精計画」2004年10月10日初版発行 「地上の園」2005年6月15日初版発行


 この一年はほとんど更新していませんでした。今度こそは、と思っています。

2022年3月11日金曜日

地震から11年

 11年前の3月11日は今年と同じ金曜日でした。あの日は雪が降り、停電の中、寒い夜を過ごしたものです。
 今年はコロナウイルスの影響もあり、また十年が過ぎたためか、仙台では市主催の慰霊祭は行われず、献花式のみでした。こうして記憶は風化して行くのかもしれません。
 それでもあの日を記憶に留めるための色々なことがありました、またこれからもあるようです。若い人たちの活動もあるようです。テレビ・ラジオでの特集番組もありました。

 東日本大震災では津波で亡くなった方・行方不明者が多数にのぼり、津波の恐ろしさを再認識させられました。しかし、と思わされることがありました。今年一月のトンガの海底火山の噴火の際に津波注意報が出された(一部では津波警報)のに避難した人はあまりいなかったとの事でした。潮位変化で海面は一メートル以上上昇したところもありました。結果として、避難の際の転倒で怪我をした人と漁船の転覆沈没が数件あっただけのようでした。大きな津波がなかったことは幸いでした。この警報・注意報が地震に伴ってのものなら避難をする人が多かったのでしょうか。

 福島県は未だ立ち入り禁止のところがあります。また、処理水の問題も風評被害などは解決されていないようです。

 震災をテーマにした本(ルポルタージュや小説)もたくさん出版されました。マンガも出ましたが、先日本屋で じんのあい の『月の輝き、星の影』と云うマンガを見かけ、思わず購入しました。この作品はフィクションですとありますが、気楽に読み進められるようなものではありませんでした。この後どのようにお話が展開して行くのでしょうか、気になります。
 余計なことですが、このタイトルを見たときに思い浮かんだのが小野不由美の「月の影 影の海」でした。
 十年一昔という言葉があります。あの日から11年ということで、十年は忘れて新たに一年経ったと思えればいいのですが‥‥‥。

 福島の原発事故は天災というよりも人災なのでしょう。しかしそのきっかけは天災でした。けれど今ウクライナで起こっていることはどうでしょうか。ウクライナの原発に何事も起こらないことを願います。
 ウクライナで亡くなられた方の御冥福をお祈りいたします。

2022年2月12日土曜日

みなもと太郎の『ホモホモセブン』

 みなもと太郎さんは昨年死去されました。未完の「風雲児たち 幕末編」を残したままで。 「風雲児たち」は「大乱戦関ヶ原」に始まっていて、竜馬の旅立ちまでは潮出版で出ています。第一巻は昭和57年(1982年)第29巻は平成九年(1997年)です。第30巻は外伝として出版されています。幕末編は29巻を受けて始まります。と云っても第24巻のおイネの話の続きから幕末編第一巻は始まっています。

 この人の書いたもので、マンガではありませんが、「お楽しみはこれものなのじゃ みなもと太郎のパロディ笑劇場」と云うのがあります。マンガ評といったものでしょうか、面白いものです。これは朝日ソノラマの「マンガ少年」の創刊号(1976年9月)から三年間(1979年8月号)に渡って載ったもので、その後河出文庫から「お楽しみはこれものなのじゃ」で出ているようです。手塚治虫に始まって最後は西谷祥子で終わっています。

 さて表題のマンガですが昭和45年(1970年)から昭和46年の少年マガジンに連載されたものです。今はネットで読めるようです。

 始まりは劇画調のシリアスな絵と場面からです。さながら「ゴルゴ13」の始まりのような、今の少年雑誌には載せられないだろうと思われる始まりです。五ページ目の最後のコマに主人公がギャグマンガの絵で登場します。主人公ホモホモセブンとレスレスブロックとの戦いのマンガなのですが、内容が破天荒なのです。(ギャグ)マンガの常として、どんな目に遭っても主人公は死ぬことはありません。また、始まりにホモホモ2号がレスレス11に殺される以外に味方が死ぬような事はないようです。しかしこのマンガではずいぶん大勢が死んでいっています。それもレスレスブロックの女の人が。

 「レスレス7喜々一発」にはレスボス島が地図と共に出てきます。サッフォーの出身地で、レズビアンの語源ともなった島ですが、このマンガではとんでもない形で出てきています。この話には大阪万博の後始末が出てきます。ばんぱくやつわものどもがゆめのあとで終わっています。その後が一ページ程ありますが、ギャグマンガの決まりでしょう。

 連載開始が1970年と云う事で、サイケデリック調の絵が出てたり、映画の健さんシリーズのパロディーがあったり、谷岡ヤスジのムジドリや楳図かずおの絵が出てきたりと賑やかです。この頃は学生運動の盛んな頃です。1970年3月にはよど号ハイジャック事件が起こっています。前年には東京大学に機動隊が入っています。「片手にゲバ棒、片手にマガジン」と言われていたのもこの頃でしょう、半世紀も前の出来事です。しかしこのマンガには学生運動を思わせるものはありません。だからこそネットで読めるのかもしれません。今読み返しても面白く読めます。

 第3話に登場するセブリーヌですが、ホモホモセブンの思い女(びと)として最終話の最後のコマでセブンと抱き合って微笑んでいます。ドストエフスキーの「罪と罰」のソーニャが思い浮かんだのは何故なのでしょうか。


書名『ホモホモセブンシリーズ』 1巻 COMIC MATE 43 2巻 COMIC MATE 47

出版社 若木書房

1, 2 巻とも昭和52年12月24日 第6刷発行 初版はいつ出たのでしょうか


 HOMO で LUMO が思い浮かぶのは私だけではないでしょう。

2022年1月10日月曜日

ちょっと休憩 『NHKみんなのうた60を聴きながら』

 NHKFM放送でみんなのうた60を聴きながら、昔の歌を思い出していました。そしてこの歌は今の時勢では放送不可だろうなぁと云う歌を思い出しました。「あだなのうた」です。1968年に放送されたものです。あだ名を禁止している学校もあるとかで、この曲はそういった意味で放送禁止曲になりそうです。

 もうひとつ、今の世の中では幼稚園や保育所は迷惑施設になっていると云うことを聞きます。また、学校にも煩いとクレームが来るとのこともあるようです。 そんな話題を聞いたときに思い出したのが「街」と云う曲でした。この歌の三番の歌詞の終わりが「いつでもこどもの声がする」で終わっているのです。この曲は1967年に放送されたものでした。小学生の頃にこの歌を聴いた人たちは今は60代です。この人たちにはこどもの声はどう響いているのでしょうか。

 この放送で流れていた「さとうきび畑」はちあきなおみの歌でした。この人のものが好きです。淡々とした歌い方で、揺すぶられます。

2021年12月5日日曜日

山岸凉子の『白い部屋のふたり』

 山岸凉子の表題作を読み返してみました。終わりまで読んで、そうかこう云うお話だったのかと改めて思いました。 
 そして昔読んだ時とは違う思いを抱きました。では、お話を読みながら考えてみたいと思います。 

  お金持ちの両親を交通事故で亡くしたレシーヌはお嬢様学校の寄宿舎に入ります。あらすじについては https://blog.goo.ne.jp/my-yoshimura/e/614c74e8ee282ce81269f0154289a032 などを見てくだされば有難いです。そこで同室になるシモーンとのお話です。上記のあらすじには書いてありませんが40から41ページには、シモーンと母親の確執があります。昔読んだ時には、最終的にはシモーンに惹かれて行くレシーヌに思いを寄せたのですが……。
  「いまはもう死ぬこともあたわぬわたし 石の心をいだいて生きるこのむくい」で終わっています。この救いのない終わりかた、余りにも悲惨です。最初に読んだ時には、それも含めて面白いと思って読みました。

  何十年かぶりに読み返してみて、レシーヌは救われようと思えば救われるのではと思いました。この年齢になると、悲劇にも何とかして救いを求めたくなるのでしょうか。
 まず第一に思ったのは、レシーヌはシモーンの死の現場にはいなかった事です。マンガでは5ページに渡って描かれていてクライマックスなのですが、それはレシーヌにとっては単なる伝聞なのです。直接の体験ではないので、PTSD(読んだ当時にはこんな言葉は知りませんでした)にはなりにくいのではないかと思うのです。その次に思ったのは、レシーヌはシモーンから物理的に離れることができたことです。心理的にはシモーンにまだ縛り付けられていますが、去る者は日々に疎しとも言いますから。読み直してみて「ストックホルム症候群」が思い浮かびました。レシーヌはシモーンに監禁されているわけではありませんし、そこから逃げ出しているわけですから、条件には当てはまらないでしょうが。なお、ストックホルム症候群のきっかけの事件はこのマンガの二年半以上も後の出来事です。
 何年か経って、そんな事もあったとレシーヌの記憶の中にだけ残っていればいいのですが。
 このマンガは、少女マンガでは初めての女の子同士のキスシーンが描かれたと話題になったようです。


 山岸凉子はこのマンガの五ヶ月前に『ラグリマ』と云う作品を描いています。これは徹底した悲劇で救いがありません。「死の寸前に彼女の耳にとどいたラグリマの曲は 幸うすい彼女に与えられた神よりのただひとつの贈りものだったのかもしれません……」と終わっています。女の子は15か16で亡くなるのです。
 なお「ラグリマ」は「アルハンブラの思い出」で知られる、タレガの作曲したものです。マンガの価値には無関係ですが、年代が合いません。ネットで検索できるのは良いのですが。



書名 『白い部屋のふたり』 山岸凉子傑作集3 RIBON MASCOT COMICS 50
出版社 集英社
出版年 1973年9月10日初版発行

書名 『ラグリマ』 山岸凉子傑作集2 RIBON MASCOT COMICS 15
出版社 集英社
出版年 1971年3 月10日初版発行 手元のものは1973年1月10日の第4版です。


 この一年、前の一年以上に更新ができませんでした。12年目はもう少し頑張りたいと考えています。

2021年3月11日木曜日

地震から十年



 今年は十年と云うことで各メディアでも頻繁に取り上げられています。もう十年、まだ
十年とそれぞれにあることでしょう。でも十年は通過点なのでしょう。

 十年というと1956年の経済白書が思い浮かびます。「もはや戦後ではない」と書かれたものです。戦争と震災を一緒にするのかと怒られそうですが。それでも、復興を感じら れない人が多いのも事実です。

 震災からの十年で日本の GDP は確かに増えましたが、それを実感できた人はむしろ少数派ではないでしょうか。新型コロナウィルスの影響もあって、最近の統計では所得の減少がかなりあるようです。そういえばトリクルダウン理論を唱えた首相もいましたが、今はブレーンの竹中某氏も掌返しで日本では誤りだったと云っているとか。

 75年前からの十年間と2011年からの十年間では、社会の仕組みが違い複雑化していることは事実です。それでも復興はまだまだという人が多いのは何故でしょうか。土地の嵩上げに時間がかかりすぎたことも原因の一つでしょう。また、人口減少地が多いのも理由に挙げられているようです。

 十年前にイヤになるほど聞かされたのは、「想定外」と云う言葉です。でも、貞観地震
の時の津波痕から警鐘は鳴らされていたのです。また、昔からあった神社はほとんど津波の被害に遭わなかったとか。
 「東日本大震災」と云うと、福島、宮城、岩手の三県が取り上げられますが、青森、茨
城、千葉などもかなりの被害がありました。それが取り上げられることはほとんど無いようですが、地方の話題としてローカルニュースになっているのでしょうか。

 先日(2月13日)、福島と宮城の一部では震度6強の地震がありました。私は慌ててパソ コンを押さえていました。かなり揺れているなぁと思いましたが、一分にも満たない時間で揺れが収まりほっとしたのを覚えています。 

 十年前のあの日(金曜日)は雪のちらつく寒い日でした。私のところで停電が復旧したのは比較的早くて、日曜日の昼頃でしたが、ケーブルテレビが映るようになったのは翌日で した。東北地方で津波の映像をリアルタイムで見た人はどのくらいいたのでしょうか。

2021年2月12日金曜日

川崎苑子の『あのねミミちゃん』

 標題のマンガはわたしが最初に読んだ川崎苑子のマンガで、この人のマンガにのめり込むきっかけになったものです。 

 三十数年振りに通して読んでみてやっぱり面白いと思いました。では、マンガを見て行こうと思います。 

 最初は「転校生 ミミちゃんの巻」で、一学期の途中に転校してきたミミからお話は始まります。転校の挨拶の時に先生から「あんまりおとなしくしてないで ひっこみ思案はなおすように」と言われるミミですが・・・。ジロ君にいじめられて、本性が出てしまいます。ジロ君にドッヂボールのボールをぶつけてこう言うのです。「ママはいつもおとなしくしなさいっていうけど(略)あたしいじめられるのなんて大っキライなんだから!」

 この巻でお話の主な登場人物が出てきます。腕白なジロ君、おとなしい学級委員長の学君、ちょっと意地悪もする副委員長のゆり子さん、そしてミミちゃんです。おっと、担任の先生を忘れてはいけませんね。この始まりは今でも鮮明に覚えています。

 「あこがれよ さようならの巻」と「ごちそうを ひとりじめの巻」は続き物です。町はずれの古い洋館には、さみしい貴婦人が住んでいてと思いをめぐらすミミですが、ジロ君に偏屈なばあさんが住んでいるだけだと言われます。二人で確かめに行くと、台所には大きなナイフと炉には火が燃えています。怖くなった二人に「待ってたんだよ」と声がかかり、後ろも見ずに逃げ出す二人です。それから何回か街で見知らぬおばあさんに微笑みかけられるミミです。そのおばあさんが足をくじいているところに通りかかったミミは手を貸してお家まで送りますが、そこはあの洋館です。食べられてしまうと思ったミミですが、食べ切れないたくさんの手作りのお菓子が出てきます。遠い遠いむかしに事故で家族を亡くしてしまったこと、まわりの人からは忘れられてしまっていることを寂しそうに話すおばあさんに、ミミは言います。「あたし遊びに来る!友だちになるから!」 次の日から級友そっちのけのミミを不審に思ったジロ君たちに後を付けられて、おばあさんのところに通っているのが皆んなにバレてしまいます。こうして、おばあさんの庭は町中で一番子供の集まる庭になります。

 最初に読んだ当時は素直に面白いしいい話だなあと思いました。古びた洋館に住んでいる人を勝手に想像して、それが間違っていることに気づきがっかりするミミ。その洋館のおばあさんはミミの知らないところで、ひとりぽっちを嘆いているのです。街中で何度も微笑みかけるおばあさん、それを何故だろうと不思議に思うミミ。おばあさんの庭にあふれる子供達の声で終わりになるところと云い素晴らしいと思います。このマンガが描かれたのが1973年(昭和48年)と云うのもあるのでしょう。

 「なかよしさんは だ〜れ!?の巻」では仲良しの友達の名前を書いて先生に提出するのですが、掃除終了の報告をしに行って先生の机の上の表を何気なく見るミミ。その表にはポツンとミミの名前があり他の子供とつながっている線はどこにもありません。みんなに嫌われていると思うミミですが、母親から線が多過ぎて表にできなかったと先生に言われたと聞いて母に抱きついて泣くのです。

 「きょうはママの誕生日の巻」ではミミと両親のすれ違った思いが描かれています。12月の土曜日、今日はママの誕生日なのに気づいたミミは学校から帰って来ると(念のため、このころの土曜日は仕事も学校も午前中だけが当たり前でした)、ママはデパートに買い物に出かけています。自分の誕生日を忘れているに違いないと、ミミは散々苦労してケーキを作ります。けれどいくら待ってもママは帰って来ません。遅くにパパと帰って来るママですが、「誕生日だってことパパおぼえててくれてね(中略)ミミもおぼえてくれるといいのに」と言われ、泣き出すミミです。「いくらママがあやまってもいくらパパがなぐさめてもミミのからだは涙の泉 おそいんだよね」で終わります。悲劇にしても可哀想過ぎます。

 「ことしはガンバルぞの巻」では、遊び呆けるミミがジロ君の話を聞かずにテストで大失敗をすることになります。「勉強もほかのことも一生けんめいがんばる!」と思うミミです。数日経って、ミミはよい子になりました、といえればいいんですけどね、で終わっています。このお話には、大人になった今でも身につまされるものがあります。その時には、反省していたはずなのにと・・。 「教師をつづける自信がないの巻」は、ミミ達の担任の先生が、クラス運営が上手くいかないと悩んだ末に熱を出して寝込んでしまいます。クラスのみんながお見舞いに来て、その時の様子に感激した先生は「千年でも万年でも教師をしてやる」と誓うのです。このころの先生は、まだ親や児童からの尊敬の対象になっているのです。それはこのマンガの底流になっています。

 「ミミちゃん 大変身!? の巻」ではママのカツラをつけ外に出たミミですが、友達は誰もミミと気付きません。みんなにチヤホヤされて気分のよくなるミミですが、皆んなからミミと比べられてミミの悪口を言われます。怒ってカツラを取るミミと皆んなの睨み合いで終わっています。知らないとはいえ本人を前に悪口を言ってしまったのですから、これは・・。

 「妖精さん ごめんなさいの巻」は、家にひとりぼっちになったミミがいたずら妖精と二人でいろいろと悪さをすると云うお話です。夕方にママが帰ってきて、友達も遊びに来てミミは妖精のことを忘れてしまいます。ハッとして「まって妖精さん」と呼び掛けるミミですが、「あれは夢? (中略) はい たぶん だけどいまでもちくりといたむ(後略)」で終わります。ひとりぼっちの寂しさをなんとか紛らそうとする思いの見せた夢なのでしょうが、ミミの寂しさをうまく表現しています。

 「このみ先生大失敗!!の巻」では、「教師生活もすっかり板につき」と、班替えをする先生ですが、班長を立候補させ班員を集めさせようとします。ミミは立候補しません。先生はミミが楽をして人気者になろうとしていると考え、ジロ君やゆり子さん、学君の班に入ることをはばみます。「できない子やイタズラッ子をあつめてすばらしい班にしてこそりっぱな班長」と先生は言います。ようやく終わったとホッとする先生ですが、班が決まっていない子が一人。ミミだけがどこの班にも入っていないのです。「ひとり班なのね」と言って忘れ物を取ってくるからと校庭に行くミミですが、なかなか戻ってきません、先生が見に行くと泣いているミミが・・。「先生はどれほどじぶんをせめたでしょう わたしはまだまだ未熟者」 先生としては上手く行ったつもりが、そうではなかったと云う事で、思惑とは違ってしまった結果になったのです。どのように解決したのか気になります。

 「おばあさんと福寿草の巻」ではママとミミのすれ違う思いが、結局は同じことを考えていたと云うお話です。町外れに住むおばあさんに二人とも福寿草を届けます。おばあさんは「あこがれよ さようならの巻」のおばあさんです。

 最後の「自由にのびのび大きくそだて!の巻」では、前のお話で悪かったテストを見つけられ、パパとママからビシビシと勉強をさせられるミミ。宿題の作文「大きくなったらなんになりたいか」を、県のコンクールに出すことになり、それが全国コンクールまで行きます。ミミの鼻はだんだん高くなりと、ここでとんでもないことが起こります。隣町のミミと同じ名前の子が全国コンクールに行ったことがわかります。がっかりするママに先生は言います、「雑草はつよしですわ」と。「先生は気がつきました はじめてあったときよりミミたちがずいぶんずいぶん大きくなっていることに・・」で終わっています。

 連載の二年近くで大きく成長したミミ達を描くことに成功したようです。このマンガはミミ達の成長を描くと同時にこのみ先生の教師としての成長を描くことにも焦点があるようです。新米の教師として赴任してから二年の間にずいぶん教師らしくなっているなぁと思うのは、思い込みでしょうか。出版年からみると最初の巻を見て残りをまとめて買ったようです。

 学校を舞台のマンガは、子供の成長をどう描くか難しいものがあります。『月とスッポン』では、中学から高校までの成長を描いています。一方『小さな恋のものがたり』では数十年間の連載の間、主人公達は歳を取りませんでしたが、マンガでは脇役達が増えていきました。かと思えば『らいか・デイズ』のように、主役は永遠の六年生なのに担任の先生は結婚して、赤ちゃんが産まれ、赤ちゃんが成長してと周りは変わっていくと云うマンガもあります。読むほうとしては面白ければ何でもありなのですが。



書名『あのねミミちゃん』1〜4巻 MC155, 181, 206, 209

出版社 集英社

1巻 1974年6月20日初版発行 手元にあるのは1977年6月30日8版

2巻 1975年3月20日初版発行 手元にあるのは1976年4月30日3版

3巻 1975年10月20日初版発行 手元にあるのは1977年6月30日3版

4巻 1975年11月20日初版発行 手元にあるのは1976年4月30日2版 

2020年12月5日土曜日

飛鳥幸子の『怪盗こうもり男爵』

  昨年、「決定版!怪盗こうもり男爵」が出版されました。「怪盗こうもり男爵」は1979年に発行された旧版が手元にあります。決定版と旧版を比較しながら見ていきます。決定版には「怪盗こうもり男爵」第1話から第4話(1967年)、「Dr. アシモフの華麗な冒険」第1話から第3話(1969年〜1970年)、そして「怪盗紳士 アシモフ教授の華麗な冒険」第1話から第4話(1973年)が入っています。旧版には「怪盗こうもり男爵」と「Dr. アシモフの華麗な冒険」が入っていますが、「Dr. アシモフの華麗な冒険」のタイトルは無くて「怪盗こうもり男爵」で第1話から第7話までになっています。アイザック・アシモフ教授、新聞記者のベティ、私立探偵のハニーそしてベティのおじのハウス警視の四人は全てに登場します。

 お話はコメディータッチで始まりますが、なかなかに重い話になったりもします。第1話でラジウムが出てくる場面では、東日本大震災の時の渋谷での騒動を思い出しました。第2話には、O=ハナ=ハーンという名前が出ていますが、前年(1966年)のNHK朝のテレビ小説「おはなはん」は随分評判になっています。この名前は別の作者のマンガにも出てきています。第3話ではアシモフは殺されかけます。この時に犯人を突き止めるのはベティとハニーです。

 この第3話は決定版と旧版では犯人のエールが病院に行ってから結末までが大きく違っています。決定版では短剣でアイザックにトドメを刺そうとするエール(1ページ目)、間に合ってエールを拳銃で撃つベティ(2ページ目)、そして意識を取り戻すアイザック(3ページ目)と三ページです。この短剣はロシヤ貴族のアシモフの父親の物で、エール達はこれでアシモフの父親を殺しています。旧版では短剣は出てきません。犯人が病院に行って、アイザックに拳銃の引き金を引こうとするまでに四ページ、ベティが拳銃を撃つのに一ページ、意識を取り戻すアイザックに二ページです。物語としては短剣の方が良く出来ています。それにしては展開が急すぎるように思えるのです。せめてあと1〜2ページ説明が欲しいところです。三十二ページではしかたがないのかなぁとも。でも旧版では三十六ページなのは何故なのかなぁ。ロシヤ革命(1917年)の時にはまだ子供だったアイザック、それが1926年には教授とは、さらにはノーベル賞の各賞の候補になるとは大したものです。

 アイザックの出自や背景をこれほどまでに描けるとは、感心するばかりです。舞台はロンドンですが、革命後九年しか経っていないロシアの事情を取り入れています。ロシアの内戦は1920年にはほぼ終わっているようです。なお表記が旧版ではロシア、決定版ではロシヤになっていますが、連載はロシヤのようです。

 第4話はコメディーです。

 「Dr. アシモフの華麗な冒険」では、第1話にパリ警察のマグレ警部なる人物が出てきますが、勿論シムノンの推理小説に登場するメグレ警部のもじりでしょう。第2話ではアシモフは上院選挙に立候補して当選しています。もっとも、イギリスの上院は選挙で選ばれないようなのですが。第3話にはピンキーとキラーズカンパニーなる殺人請負会社が出てきます。ピンキーとキラーズのデビューは1968年ですので、おはなはんといいその頃の流行を取り入れています。

 「怪盗紳士 アシモフ教授の華麗な冒険」は「Dr. アシモフの華麗な冒険」の三年後に描かれた作品で、絵柄が前作とは違っています。前二作とは別の物語と云っていいでしょう。起承転結がありこれだけで独立した物語になっていて、190ページほどです。

 旧版の後書きは竹宮恵子が書いているのですが、飛鳥幸子は昭和24年生まれです。手に入れた時に読んだはずでしたが、失念していました。花の24年組だったのです(早生まれなので正確には違うかもしれません)。ただしデビューが早かったために私の中ではもっと上かと思っていたのです。三十歳を過ぎてからイラストレーターになったようです。山田ミネコや樹村みのりもデビューは早かったのですが飛鳥幸子と違って筆を折ることはなかったのです。


書名『怪盗こうもり男爵』PAPER MOON COMICS

出版社 新書館

1979年8月10日初版発行


書名『決定版!怪盗こうもり男爵』

出版社 立東舎

2019年9月12日 第1版1刷発行


 11年目になりました。この一年はほとんど更新ができていません。次の一年はもう少し頑張らなければと思っています。言い訳にもなりませんが、9月ごろから十数年前の iMac ではアップローダーにアクセスできなかったものですから。

2020年11月19日木曜日

むんこの『だから美代子です』

 今回は、少し新しめの四齣マンガです。

結婚後数年で夫を亡くした未亡人が主人公ですが、これはギャグマンガです、多分。最初の「てんやわんや」の一番目の齣に夫の遺影があります。ページをめくると、義父母と暮らすことになる美代子さんが描かれていま す。第1話の最後の四齣「毎日みょー子」に隣の林田さんの奥さんが出てき ます。

第6話の「たけなわ」には、「夫の遺言 墓参りには一発芸」が出てきます。美代子は手品を披露しています。第8話では定食屋でアルバイトを始める美代子が描かれています。第10話の「語らい」はしんみりとします。第11話の「脱兎3」は、四齣目で、父母と美代子の三人が走って逃げ出すというもので、脱兎のごとく三人が逃げ出すのでこのタイトルかと思ったのですが、もうひとつ、ダットサンも懸けてあるのかなぁとも。

義母は驚くほどに多芸多才です。バレエもバレーも上手ですし、第19話では秋の虫の鳴き真似をしたり、第25話では町内カラオケ大会で三位になっています。第38話では感動巨編マンガさえ描いています。

三巻第35話で夫になる人の名字、浅井田が出てきます。第36話には夫と美代子の二人の思い出が語られてます。第45話七五三の話の中で美代子の歳が37で、三歳と七歳が女の子のお祝いだからと云われています。第49話で林田さんのところに赤ちゃんが生まれます。

四巻第52話には林田さんの赤ちゃん波平の様子が描かれています。第53話では夢の中のダーリンと一緒の美代子が描かれています。第61話ではダーリンが波平の前に現れて、波平といろいろなことをしています。第63話で保育園と思っていた場所が育児院と出てきます。第64話で終わりと思ったら、続きがあります。普通の四齣マンガなら「こんな毎日がずっと続いてほしいです」で終わりだと思うのですが、そうではありませんでした。

第65話は波平の眼から見た光景として描かれています。浅井田邸の取り壊しが始まったのを見ている17歳の波平から話が始まります。美代子は子供達の施設「子馬の家」で暮らしています。いつとはありませんが、美代子の義父が亡くなり、翌年には義母もなくなっています。その時に手筒花火を打ち上げる美代子です。そんなぶっ飛んだところが好きですという波平ですが、定食屋の夫婦から「ご両親が息子さんの所に行けるのを一緒に喜んであげたんでしょ」と言われます。同じようなことを両親からも言われ、波平の中で恋心から目標に変わっていく美代子です。

「そして波平です」と「百代」の間にどのくらいの時間が流れているのかわかりませんが、「花でいっぱいの柩の中みょー子さんはえがおだった」で第65話は終わります。

最終話は思い出なのかと読んでいて、「一足お先」で、あの世のお話と気づきました。

後書きで「幸せとは何ぞや?」と考えていました、とあります。

このマンガでは平凡な日常の続くことが幸せなのだろうなぁと。日常の中で幸せを見つけると云うか、日常そのものが幸せなのかなぁと。最終話を読んでその思いを強くしました。この世と同じ日々が続いているのですから。

嫁と舅、姑の三人で暮らしていて仲が良いとは、マンガとはいえ素晴らしいことです。これこそが幸せではと思わざるを得ません。

安心して読めるのは、このマンガには悪人が出てこないことがあるので しょう。

このマンガの舞台は花丸町です。作者の他のマンガのキャラクターも出ています。 

マンガのタイトルは「みょー子さん」と呼ばれて、「美代子です」と訂正する美代子から付けられています。途中からは一々訂正していませんが。最終話では一度訂正しています。

このマンガは第64話で終わっていても良かったはずですが、それでは私がこのような雑文を書く気にはならなかったでしょう。

第35話で浅井田と姓が出てきて浅田美代子から取ったのかなぁと。


書名『だから美代子です』 1巻~4巻

出版社 竹書房

1巻 2013年11月21日初版発行

2巻 2016年3月12日初版発行

3巻 2017年3月13日初版発行

4巻 2017年12月11日初版発行

2020年5月14日木曜日

石森章太郎の『きりと ばらと ほしと』


 作者は筆名を途中で石森から石ノ森に変えていますがこのマンガの頃は石森でした。

 このマンガは萩尾望都が『ポーの一族』を描くきっかけを与えたことでも知られています。
 「きりとばらとほしと」で検索したところ metalogue.jugem.jp/?eid=2515 にありました。この筆者の小野満麿さんのことは知りませんでした。

 「第1部 きり」は1903年7月オーストリアからお話が始まります。ヒロインのリリが女吸血鬼に咬まれて吸血鬼となります。リリを咬んだ吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれチリになって消えてしまいます。
 「あなたはもう永遠にあたしたちのなかまよ……」と言われたことを思いだし身震いするリリです。
 全部で11ページです。「きり」は最初の馬車がひっくり返る場面と中間のリリが吸血鬼に襲われる場面、そして最後の場面に霧がかかってます。

 「第2部 ばら」は1962年8月の日本です。これはこのマンガがでた時で、リアルタイムのお話です。吸血鬼が犯人との濡れ衣を着せられそうになった時に、リリが犯人を指さして消えるというお話です。犯人は勿論リリの正体を知っているわけではありません。
 このお話は20ページです。「ばら」はリリが自分の正体を現す時に、手に取ります。

 「第3部 ほし」は2008年9月のアメリカで第2部から46年後の未来です。火星から宇宙船団が帰ってきますが、火星のビールスのために船員は吸血鬼になっています。リリはヘンリーを吸血鬼にしようとするのですが、地球人の最後の一人として、死んでいくヘンリーです。
 これは31ページあります。「ほし」は火星と、最後の齣の背景の星々なのでしょう。

 つい、「ポーの一族」と比較したくなりますがそれは野暮というものでしょう。

 第1部はレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」をほとんどそのまま引き写したものです。しかしだからといってリリを襲う吸血鬼の名前をラミーカとはちょっとどうかと……。吸血鬼の登場と、吸血を引き継ぐものの出現を表すにはこれがいいのでしょうか。
 第2部は、少女マンガらしいと云えば、この三つの中では一番そうなのだと思います。登場するのがお金持ちの男とその子供の姉弟です。姉の婚約者も出てきます。
 第3部はまさに地球人最後の男です。とはいえ、読んでいて気になったことがあります。薬を飲んでいて吸血鬼にならないというセリフと、六ページ後の「なかまになるか さもなくば死を……!」とのセリフの齟齬です。薬の効き目が永続するとは書いてないから、いつか効き目が切れるのかなぁと思ったりもして。

 三話ともに有名な詩から始まっています。一話はヘルマン・ヘッセ、二話はスウインバーンそして三話はダンテです。順番に霧と薔薇と星を歌ったものです。
 三つのお話は、年代は飛び飛びなのですが、七月、八月、九月と月は連続しています。これもこだわりなのでしょう。

 この作品は、60年近くも前に描かれたものです。絵柄としては、今のマンガになじんだ人には古いでしょう。それでも齣割りは工夫されていて、現代のマンガに劣るとは思えません、面白く読めます。


 この作品の前に載っているのが、『昨日はもうこない だが明日もまた……』です。これはロバート・F・ヤングの有名な SF 小説『たんぽぽ娘』が下敷きになっているのでしょう。悲しいお話です。
 奇数ページの上にあるタイトルが「昨日はもうこない だが明日また……」と間違っています。これでは意味を成していません。


 タイトル『きりと ばらと ほしと』
 書名『竜神沼』SCM-6 マンガのタイトルは「龍神沼」になっています。ただし、手描きの龍の字が間違っています。だからタイトルの漢字を変えたのかな?
 出版社 朝日ソノラマ
 出版年 昭和42年2月1日

 この本には紐の栞(スピン)がついています。初期の sun comics だけなのでしょうか。


 下火になってきたとはいえ、新型コロナウィルスはまだまだ流行しています。皆様もご自愛ください。

2020年4月19日日曜日

高橋留美子の『人魚』シリーズから『夢の終わり』

 内容少しを書き換えました。以前のものと差し替えます。

 今でこそ少年マンガを描く女性マンガ家は珍しくありません。たとえば荒川弘や桜井のりおがいます。しかし、前にも書きましたが、高橋留美子や柴門ふみがデビューした1970年代の終わりごろはそうではありませんでした。

 『人魚シリーズ』は1984年から描かれたシリーズです。このころ作者は、少年サンデーに『うる星やつら』を、ビッグコミックスピリッツに『めぞん一刻』を描いています。『うる星やつら』はギャグマンガで、『めぞん一刻』は途中からはシリアス系の恋愛マンガになっていきますが、笑いがあちこちにあります。一方、同じ頃に描かれたこのシリーズには笑いが一切ありません。

 このシリーズの下敷きになっているのは人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという「八百比丘尼」の伝説です。手塚治虫の『火の鳥・異形編』には、八百比丘尼その人が登場しています。このマンガでは八百比丘尼は人魚の肉は食べていませんが。
 高橋留美子のマンガには八百比丘尼は出てきませんが、人魚の肉を食べる場面があります。

 人魚の肉を食べて不老不死になった湧太と真魚(まな)が主役なのでしょうか。湧太は五百年も前に、真魚は現代に人魚の肉を食べて不老不死になります。真魚は食べさせられてといったほうがいいのでしょうが。
 多くはこの二人を巡る話なのですが、二人は狂言回しのようです。

 さて、このシリーズから『夢の終わり』について少し見てみようと思います。
 登場するのは湧太と真魚、大眼(おおまなこ)とよばれる化け物とそれを狙う年老いた猟師の四人です。
 山奥で血塗れになって倒れている湧太と真魚、う…と呻き声の真魚、それをみる大眼から話が始まります。
 死んでいると思い湧太を弔おうとする猟師ですが、生き返る湧太に驚いてしまいます。猟師から、倒れていたのは湧太だけと知らされ、女は大眼に食い殺されとると云われます。
 一方、真魚は化け物に拾われたのですが、この化け物は人間の言葉がわかり、話すこともできるのです。真魚に、昔人魚の肉を食ったこと、気がついたらこのような姿になり、村人を全滅させたこと、それ以後ずっとひとりぼっちなことを話します。
 真魚を捜しに出る湧太です。猟師から、大眼を倒すには首を打ち落とすしかないと聞かされ、"なりそこない"ではと思うのですが……。
 大眼はあるときには理性を失い、なりそこないとなってしまいます。
 湧太と猟師は一緒にいる真魚と大眼を見つけます。真魚を連れて抜け穴へと逃げる大眼ですが、26ページから27ページにかけての大眼の心の変化は観るものを引きつけます。真魚は大眼に自分たちと一緒に来るように言いますが、猟師は言います、「そいつは化け物だ 生かしておいちゃならねえんだ」と。穴の中には無数の人骨があります。大眼は「頭がぼ…っとじて…わげが…わがんねぐなるときがある…」と涙を流してつぶやきます。その時、猟師の発砲で大眼は理性を失います。理性を失いなりそこないとなった大眼は真魚をも投げ飛ばす大暴れをして、最後は湧太にやられてしまいます。いまわの際に理性を取り戻し、真魚の名を呼んで息絶えます。
 終わりのページは「最期に人間に戻れたんだ。 ゆっくり眠れ。 もう悪い夢は終わった…」となっています。

 このシリーズでは『夢の終わり』は32ページと一番短い話ですが、終わりに唯一の救いがあるように思えるのです。救いと言うには余りにも哀しいのですが。
 このシリーズには笑いがありません、徹頭徹尾哀しみしかありません。湧太の一人で生きてきた五百年、『人魚の傷』の真人の八百年の日々、楽しいことがあったかもしれませんが、それは生きることのつらさの陰に隠れてしまいます。
 不老不死は、秦の始皇帝を持ち出すまでもなく、昔から人間の憧れでした。しかし不死なのが自分だけで、まわりがどんどん変わっていくのにどの程度耐えられるのでしょう。浦島太郎は玉手箱を開けて現実を知ります。浦島との違いは、裕太たちは変わっていく様子を見ていることです。人は孤独にどの程度耐えられる、あるいは馴れるものなのでしょうか。湧太は真魚と一緒に生きていくことで互いに癒されることでしょう。
 首を刎ねられると死んでしまうということは二人とも知っています。それでも湧太は何度も生きることを選びます。真魚も生きることに拘ります。これは何故なのでしょう。生あるものが生に拘るのは当然なのでしょうか。
 この二人に終わりの日は来るのでしょうか、その時に二人は…などと考えるとちょっと怖くもなります。

 人魚というと、アンデルセンや小川未明を思い浮かべますが、古くから伝わっている伝説もあることを教えてくれるマンガです。前にも書きましたがこのマンガには八百比丘尼の名前は出てきませんが、八百比丘尼についてはネットで探すと詳しく出てきます。

 今回読み返してみて、萩尾望都の『ポーの一族』シリーズを思い起こしていました。吸血鬼と人魚というどちらも永遠の時を生きるもの同士が出会えばどういうお話になるのでしょうか。


 タイトル『夢の終わり』
 書名『人魚の傷』
 出版社 小学館 るーみっくわーるどスペシャル
 1993年1月15日初版第一刷発行

2020年3月11日水曜日

地震から九年

 あの日からもう九年、まだ九年と様々な思いが交錯します。
 今年も TV, ラジオで特番をやっています。九年経つと形のあるものはほとんど出来上がっているようですが、心だけはそうはいかないようです。ハードの面は金さえかければ何とかなります。けれど、亡くなられた方については……。
 時の流れが止まってしまっている方もいらっしゃるようです。

 行方不明の方がまだ 2,529 名いらっしゃいます。親御さんやお子様、親族の方はあきらめきれないことと存じます。

 その頃小中学生だったひとたちが、語り部として震災を語るようになったとも聞いています。これから先、震災を知らない人たちが増えていく時に、心強く思います。

 被災三県として纏められることのある東北ですが、福島県浜通りと宮城、岩手両県とは事情が異なります。原発の問題の片がつくのはいつになるのでしょうか。さっき見た TV ではあと40年で何とかなるかもしれないと云っていました。ニュアンスとしてはケリがつくのではなくて、何とかなる目途がつくと云うことかなぁと。

 今年の3.11は新型コロナのために追悼式の中止や縮小が相次いでいます。

 仙台では午後2時46分過ぎに空に虹が架かっていました。たまたま虹が出ただけと云ってしまえばそれでお終いですが、意味を感じた方も多かったのかもしれません。

 今日の仙台は16.1℃と気温が高くなりました。あの日は雪が降っていました。

2020年2月12日水曜日

高野文子の『絶対安全剃刀』


 高野文子は寡作のマンガ家です。Wikipedia を見るとデビューから40年以上なのに七冊しか本が出ていません。それでもマンガ界に与えた影響は大きいようです。

 この『絶対安全剃刀』は200ページ弱で17の短編が入っています。4ページから20ページまで長さはいろいろです。帯には?と!が三つ書かれていて「?の数は年の数。!の数は心の柔軟度。」とあります。
 その中からいくつかを取り上げます。

 まず『田辺のつる』からです。なぜこれが最初かといいますと、このマンガは心に残るといいますか、妙に記憶に残っているからです。
 ボケ(認知症?)の始まったおばあちゃんの日常のお話です。
 マンガの中では、おばあちゃんは「きいちのぬり絵」の女の子のように描かれています。おばあちゃんの心象としては女の子なのでしょう。おばあちゃん以外は普通の人物です。おばあちゃんは孫の女子高生にはいやがられているようです。孫のボーイフレンドとのちぐはぐな会話に代表されるように、どこかすれ違うおばあちゃんと家族の会話があります。最後の齣については、夏目房之助が驚嘆したとか、Wikipedia にあります。
 実はこの短編集の中のマンガではっきり覚えているのはこのマンガだけだったのです。年取ってから自分の居場所が無くなるというか、見つけられないという読む側の焦燥感というかそんな妙な気持ちです。
 おばあちゃんを五歳くらいの女の子に描くと云う手法には驚きます。でもこれには二重の意味があると思います。このマンガが印象に残ったのは、巷間にいわれている「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」を文字通り絵にしたのではと思ったからです。子供として描かれている82歳のおばあちゃんには違和感がありません。
 老人問題は永遠のテーマなのでしょう。このマンガは40年前に描かれていますが、今でも充分に通用する内容です。

 次は『アネサとオジ』、『いこいの宿』を取り上げます。Wikipedia によりますと、このシリーズはあと二作あるが単行本には入っていないとのことです。
 『アネサとオジ』では、アネサは弟のオジをいじめます。何とか対抗しようとするオジですがことごとく成功しません。ところが、「歩きながら本を読むとは本を読みながらものを食いそれでもたりずにしゃべるとは…!」とオジが普通にしているのに驚かれ「それいらいアネサはオジを師とあおぐようになりました」で終わっています。普通と普通でないことの境界はどこなのでしょうね。このマンガはセリフも地の文も手書き文字です。
 『いこいの宿』は内容については Wikipedia の『絶対安全剃刀』の項を見てください。最後の齣で、青年から貰った“希望”と云う名の人形を身体の前面におんぶ紐でおんぶしているアネサとオジが家の前に佇んでいる場面で終わっています。確かにいわゆる少女マンガのパロディーが多いとは思いますがそれだけでもないのかなぁと。

 最後に『絶対安全剃刀』についてですが、実は今回読み返してみるまでは内容はすっかり忘れていたのです。で、何か書こうかとも思ったのですが、止めておきます。

 このようなマンガは読み終えたあとで、あぁ面白かったと本を閉じるよりは、妙に疲れます。それでも止められませんが。


 書名『絶対安全剃刀 高野文子作品集』
 出版社 白泉社
 昭和57年1月19日初版発行

2020年1月17日金曜日

阪神淡路大震災から25年


 あの大震災から25年、TV やラジオではいろんな番組をやっていました。25年も経つと震災経験のない人が多くなるのは仕方のないことです。どのようにして震災体験を繋いでいくかでしょう。
 犠牲となられた 6434 名の方に手を合わせます。

 25年というと四半世紀と云うことになります。この震災の25年前というと1970年(昭和45年)、大阪万国博覧会のあった年です。よど号のハイジャック事件があり、三島由紀夫の事件のあった年でした。その25年前といえば、1945年(昭和20年)です。第二次世界大戦の終わった年でした。
 戦後の苦難を乗り越え、高度経済成長期になったのが1970年までの四半世紀で、1973年のオイルショックに始まり、1979年の第二次オイルショックを乗り越えバブル景気になりそれがはじけるまでが1995年の次の四半世紀だったように思います。その次の四半世紀は日本は失われた○十年になったようです。
 勿論、パソコンの高性能化と普及、AI の発展などがありますが。

 本当に何の纏まりもなくなりましたが、四半世紀でふと思ったことを書いてみました。

2019年12月5日木曜日

沖倉利津子の『木曜日はひとり』


 セッチシリーズの三冊目です。表題作の他に『おおきな日曜日』が載っています。それでは雑誌掲載順に見ていきましょう。

 『おおきな日曜日』からですが、夏休みの林間学校が舞台になっています。このシリーズには珍しく、セッチは脇役です。林間学校の班割りからお話が始まります。いつもの男子六人で一つの班を作ります。その中の二人が、同じ女の子(キヨちゃん)に好意を抱きますが……
 何とかしようとする柴崎真実ですが、女の子は実は柴崎が好きで、とややこしい(?)事になっています。セッチから「つきあってあげなよ」と言われた柴崎は65ページで以下のように考えるのです。「そうかんたんに考えられたらいいけどな……(中略) みんなひとりの人間でそれぞれに感情があって…… むずかしいんだよな」と。また、69ページから70ページにかけての柴崎の考えもなかなかのものです。六人の中では一番大人なのでしょう。
 さて、セッチですが73ページに出てきた時には、「女の子のほうの気持ち完全に無視した連中だな!!」と、柴崎のいない五人の連中に言います。
 柴崎はキヨちゃんの気持ちを知りながらも付き合うことはしないで、六人のグループは元通りになります、たぶん考え方が一回り大きくなって。

 つぎに、『木曜日はひとり』ですが、セッチが、知らない男の子からラブレターをもらうところから始まります。どうしようと右往左往するセッチですが、11月23日木曜日に手紙の主の斉藤君とデートをすることにします。ぎごちないデートから帰ってあれこれと思い悩むセッチです。
 自分の全部を見てもらおうと斉藤君を日曜日の野球に誘うセッチ、斉藤君は福留からこの仲間のルールを聞きます。
 44ページから46ページは野球をしているセッチたちを見ている小林鉄の内心の思いなのでしょう。
 14ページに林間を思い出すとのセリフがあります、なぜ収録の際に順序を入れ替えたのでしょうか。

 以上があらすじです。

 『おおきな日曜日』では中学生のそれぞれの個性がうまく描かれています。柴崎はこのお話の主役なのですが、考えがものすごく大人びています。いろいろなことを考えています。自分の行動の結果も勿論です、だからこそ、キヨちゃんを振ったのでしょう。70ページに片方だけの思いと云う言葉が二度出てきます。思いとは、それだけ重い言葉なのでしょう。
 『木曜日はひとり』では、セッチが知らない同学年生から手紙をもらうところから始まります。そこから恋の物語の始まるマンガもありますが、そうはならないところがこのシリーズです。斉藤君がこのグループにうまく溶け込めるような印象でマンガは終わります。セッチからの手紙の相談などで小林鉄はずいぶんと登場して、重要な役割を果たしていますが、それは割愛します。


 書名『木曜日はひとり』
 出版社 集英社 マーガレットコミックス MC 414
 1979年6月30日 第1刷発行  手元のものは1983年1月25日 第9刷です


 今日から十年目になります。本当に夏になるとアタマがどっかにいってしまうようです。次の一年こそはと思うのですが……

2019年7月31日水曜日

萩尾望都の『小夜の縫うゆかた』


 全国的に梅雨も明け、暑い日々が続いています。そこでゆかたのマンガを取り上げます。
 ずいぶん古いマンガです。ネットでもストーリーは載っていますが、念のために書いておきます。
 中学二年の小夜はゆかたを作ります。一昨年、母が買った赤とんぼ模様の布地を使って。子どもっぽいと言われつつ、生地を裁ちゆかたを縫っていきます。毎年、夏になるとゆかたを縫ってくれた母を思い出しながら。水たまりで転んだこと、見知らぬ女の子にゆかたを貸して、そのままどこかに女の子がいなくなったこと。針を指に刺してその痛さで、家の前で倒れた妊婦さんのことを思い出したりします。
 赤とんぼ模様の布地を買ってきて、これで今年のゆかたを作ってあげると母は言います。しかし交通事故で母は逝ってしまいます。
 最後のページは枠線無しの一齣です。
 ところどころに、今の兄と兄の友達の様子が入ります。

 このマンガを最初に読んだ時には、素直に以下のことを思いました。
 母の残したゆかた地を裁ちながら母との思い出を回想しているのだと。母の初盆の思い出には胸を打たれました。
 毎年ゆかたを縫う母、ゆかたを着て楽しかったこと、水たまりで転んで大泣きしたことなど。長い髪を切ったことも語られています。
 そして最後のページでは、自分でゆかたを縫うことで、母を失った痛みを乗り越えていく小夜を描きたかったのかなぁと。
 扉絵と最後のページのせいで、もうゆかたができあがってしまっているような気になったりもしました。

 この時、作者は22歳です。ですので、中学生くらいの気持ちもよくわかるのかなあと思ったりしたものです。

 ところが、雑誌「暮しの手帖」第4世紀55号(2011・12年)に作者が書いたのを読んで、それだけではないことに気がついたのです。
 それによると、30歳ごろに両親と大げんかをしたとあります。その後は、仕事を理解してもらうのはあきらめ、互いに漫画の話はしないと暗黙の了解で暮らしてきたとありました。2010年に雑誌社の取材に母親は「漫画に反対したことはいっぺんもない」と言ったとのことでした。
 萩尾望都作品集(赤本)16巻の後書きに父親が娘のことを書いています。この巻に載っているマンガが『とってもしあわせモトちゃん』です。だから父親に書いてもらったのでしょうか。出版年は昭和52年9月10日となっています。この年に「萩尾望都プロダクション」を父親を代表に作ったと wikipedia にあります。二年しか続かなかったようですが。
 マンガを描く娘と両親の確執は、マンガ家になった頃に始まっているのでしょう。だからこそ「お母さんはみんな死んじゃう。あるいはいない」になるのでしょう(ここはトーマの休日さんの 半神 自選短編作品集 萩尾望都 Perfect Selection 9 のカスタマーレビューからの孫引きになります。このかたのレビューは興味深く読めました。ただ、最後の一文は筆が滑ったのでしょう、突っ込みが入っています。 https://www.amazon.co.jp/hz/reviews-render/srp/-/RU7NAYOPSM0G0/)。
 そしてそれらのコンプレックス(複合感情・複合観念)を乗り越えて描き続けた事は読者にとっては幸せなことです。


 タイトル『小夜の縫うゆかた』
 書名 『トーマの心臓』3巻
 出版社 小学館 フラワーコミックス FC-43
 昭和50年6月1日 初版第1刷

 古いところで恐縮ですが、萩尾望都作品集2『塔のある家』にも載っています。

2019年5月31日金曜日

藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』と『カンビュセスの籤』


 どちらのお話も Wikipedia に載っています。

 まずは『ミノタウロスの皿』から取り上げます。
 ミノタウロスはクノッソスのラビュリントスの奥に棲むという身体は人間で頭は牛という怪物です。

 主人公は宇宙船の事故で一人生き残り、地球型の惑星に不時着します。その星にはウスと呼ばれる地球人そっくりの家畜と、ミノタウロス型のズン類という支配者がいます。
 ウスは服を着ていて外見は地球人にそっくりです。会話も普通にズン類と行っています。ウスの娘ミノアに恋心を抱く主人公ですが、ミノアはミノタウロスの皿に選ばれた肉用種です。
 言葉は通じるのですが、かみ合わない会話(p. 172 の九齣にその様子が描かれています)、その根底にある概念のすれ違い、どうすることもできない主人公です。

 以前に読んだ時には気がつかなかったことがあります。
 会話のできない種では、食べるものと食べられるものとはおおむね決まっています。たとえば、ヒトは美味しく牛肉を戴きます、最後の齣の主人公のように。でも、普通はヒトは、犬や猫のようなペットを食べることはまずありません。昔のヒトは食人もしていたとも言われていますが、いつでもしていたわけではないようです。
 アンデス山中に墜落した飛行機のことを思い出しました。
 地球外のことを扱っているのだからと云われてはどうしようもないのですが、このマンガにはいろいろと考えさせられるものがあります。互いに会話のできる異種同士の事についてです。この話のように割り切れるものなのか、葛藤はないのかなぁと。

 次に『カンビュセスの籤』です。Wikipedia ではわかりやすくするためか話の順番が違っています。
 「カンビュセスの籤」については p. 133 以下で主人公が語っています。そして p. 136 でもう一人の主人公はこう言います。「地獄をのがれて…… 別な地獄へとびこんじゃったわけね。」と。

 カンビュセスの籤に当たった男は、逃げて霧の中をさまよい霧を抜けて遥か未来の、生き残りが一人だけの地に来ます。互いに言葉は通じません。
 双方の思いが通じることはありません、翻訳機の修理が終わるまでは。最後の日に互いの思いを語る二人。恋愛感情は一切でてきません、当たり前ですが。
 籤に当たり、ミートキューブになるために装置に上る少女で終わります。

 未来の悲劇の物語です。終末戦争によって二十数人だけが生き残り、籤を引いて誰かが犠牲になり、一万年の冷凍睡眠を行いを二十三回繰り返し、一人だけになった生き残りの少女、そこ現れた男なわけです。
「あたしたちには生きのびる義務がある」とは、地球で生き残ったものの思いなのでしょう。そして、唯一の救いが「一万年眠ってあなたが目覚めたらこんどこそきっと…」にあるのです。シェルターから宇宙に向けての発信につなぐ希望なのです。
 昔読んだ時には、未来の戦争の悲劇だけにしか思いが至りませんでした。けれど、今回読み返してみて、悲劇ではあるけれども、地球に発生した生命体の代表となるのには成功するかもしれないとの思いを持ちました。

 ヒト以外の生命がすべて消えてしまうと云うことは、地球が無くならない限りは、まあないでしょうが、その逆のヒトが消えてしまうことはありそうでゾッとします。


 書名『ミノタウロスの皿』 異色短編集1
 出版社 小学館 ゴールデンコミックス(GC番号はありません)
 昭和52年12月15日初版第1刷発行

 タイトル『カンビュセスの籤』
 書名『ノスタル爺』 異色短編集4
 出版社 小学館 ゴールデンコミックス(GC-14)
 昭和53年4月15日初版第1刷発行

 文中のページは上記二冊のものです。

 書名『カンビュセスの籤』 愛蔵版 藤子不二雄 SF全短篇 第1巻
 出版社 中央公論社
 昭和62年2月5日初版印刷 昭和62年2月20日初版発行
 これには「ミノタウロスの皿」と「カンビュセスの籤」が載っています。

 上記の三冊は当然のことながら藤子不二雄名になっています。

 この他に手元にあるものは
 藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版 f1 に「ミノタウロスの皿」、f4 に「カンビュセスの籤」が載っています。どちらも2000年に出版されています。

2019年4月29日月曜日

杉本啓子の『夢幻宮』


 作者は貸本でのデビューが1964年とあります。'66年から別冊と週刊の少女フレンドに作品を描いています。しかし私がこのマンガ家を知ったのはずっと後のことです。'79年の『空中庭園』で初めて単行本を買いました。'75年が最初の単行本が出た年とありますので、本屋で見かけた『ジニの魔法つかい』(これはさすがに手は出しませんでした)の出た年です。

 さて『夢幻宮』ですが、八つの短編からなる作品集です。副題が「幻想ロマン自薦異色短篇集」とあります。その中から読み返してみて面白かったものを取り上げます。

 まず、「溶けていく風景」から始めます。
 Ⅰ. ファンタスティック 不仲な両親と四、五歳くらいの女の子、身体の1/4くらいの毬に上手に乗ります。「見て見て」と言っても両親は子供のほうを見ません。「見て見て いるのは あたしだけ」との視線の先にはサーカスで玉乗りをしている自分の姿。
 Ⅱ. サディスティック 砂場でいじめられる女の子、いじめる大きな男の子は画面にはほとんど出てきません。「しばらくして…… その子病気で死んだけど あれはぜったいに病気なんかじゃない あたしをいじめたからだ 当然のことだ」
 Ⅲ. ロマンティック 中学生になった女の子は、一葉の写真をアルバムで見つけます。「これだれ? 新人歌手?」との問いに、昔、女の子をいじめてた男の子と聞かされます。自分の記憶では鬼のような顔だったからです。その子はとても苦しんで死んだことを思い出します。女の子は教室で倒れます。「A子ちゃん!」と級友達が呼びかけます。となりの席のB子ちゃん、いまのとこ大好きなCくん、そしてパパもママもみんなみんなテレビの中に入ってしまって、きこえてくるひとつの音
 Ⅳ. フィナーレ 激しい砂嵐の中にいる女の子、身体があるから痛みを感じるんだ、きえてしまえわたし、砂になれ! 風になれ! 消えてしまったわたし、空気のように生きたいよ、と最後のページは砂漠と満月で終わります。

 フィナーレの独白は思春期の女の子の思いなのでしょう。Ⅲ章でのパパとママはⅠ章のパパとママと同じです。両親の愛情の中で育ったとは思えません。だからこそ、きえてしまえになるのかなぁと。でも、救いがあるとすれば、「いたみも いとしさも かなしみも そのままに 空気のように 生きたいよ」にあると思えるのです。そのままにと云うところがひっかかります。かなしみもなくなれでないところに光明を見るのは考えすぎでしょうか。

 つぎに「夢幻宮」です。
 15ページと一番短い掌編です。見開きのタイトルページを除くと13ページです。
 最初の六ページは水族館です。迷子のお知らせから始まります。今日は迷子が多いなとつぶやく青年、その時その青年の迷子呼び出しがかかり、次に一緒の女の子の迷子放送がありと、次々に館内の人の迷子放送があります。右往左往する人々、一瞬の静止の次のページには十数匹の泳ぐ魚。
 ページをめくるとデパートの屋上です(昔はデパートの屋上には小さな子供のための遊園地があり、遊具がありました)。ボロの服をまとった老婆が一人椅子に座っています。もうすぐ閉店ですよと声をかける青年。老婆は語ります、「むかしむかし まいごになりましてね もう長いこと歩きまわっているんですが ちっとも家につかなくて とうとうこんなになってしまいました」 そして新幹線を模した乗り物を指さし、それに乗せてもらい、「これに乗りたくてここに来て 母親とはぐれてしまったんですよ ありがとう もう思いのこすことはありません」と言います。そこで乗り物の動きが止まります。すると老婆は「あの…… おそれいりますが……」 黒い齣に白の文字で「今度は観覧車に」
 その下の齣には「ガンガンガンガン ゴーオッ」の手書きの文字が。次のページにはガードを通過する電車が変則横割り四齣で描かれています。そして最終ページはビル群と夕日の齣で終わっています。

 水族館の話はまだわかります。迷子の呼び出しで次々に呼ばれるのは迷惑かもしれませんが、たぶん館内の全員が呼び出されるのだろうと云うことと、騒然とする中での一瞬の静止というのは。
 デパートの屋上の話のほうはわからなくもないのですが、ちょっと無理かなあと。
 新幹線を模した乗り物ではなくて、自動車かバスだったらまだ何とかなりそうですが(新幹線の開業はいつでしょうか。マンガの描かれた時期はいつでしょうか)。それにしても、時間の経過を表すために老婆を持ってくるというのはちょっと安易すぎるような気もするのです。これとは別の話になってしまうと思いますが、小さな子供のままで時間が経ってしまう、衣服のボロさで時の経過を示すというのはどうなのかなぁとも。

 「夢幻宮」は描き下ろしの作品のようです。


 書名『夢幻宮』
 出版社 東京三世社
 1980年9月10日初版発行

2019年3月11日月曜日

地震から八年


 今年も3.11が来ました。あの日と違って今日は夕方まで雨が降っていて、寒くはありません。TV では数日前から特集番組をやっています。

 震災関連死者は3,700名を数えるとの報道には考えさせられます。せっかく地震を生き延びたのにと思うと、その後のケアも大切なのを今更ながら思い知らされます。生きていても仕方ないと言っている方がいます。自殺される方も多いとのことです。

 すでに復興工事はほとんど終わったなどの声も被災地以外ではあるとか。それに対して、被災地では六割近くの方々が復興はまだまだと言っているとのことです。復旧はほとんど終わったかもしれませんが、復興は、と言ったところでしょうか。
 災害公営住宅の建設はほとんど終わったとのことですが、そこでの孤独死も起こっています。隣に住んでいる人に会ったこともない、名前さえ知らないというのは余りにも…。
 また、家が全壊ではない在宅被災者の悲惨も TV でやっていました。災害公営住宅にも入れない、さりとて家を修理するお金もない、あきらめきっているような被災者には声も出ませんでした。

 TV で2011年と2019年の同じ場所で撮った映像が流れていました。2011年の映像で、地震は自然災害だから仕方がない、けれどあれは許せないと、原発を指さして言っていたのが印象に残りました。原発立地地区の復旧復興はあるのでしょうか。

 先日石巻の日和山公園に行ってきました。天気は曇りでしたが、海は静かで、川も滔々と流れていました。あの日の海と川はと思うと……。
 旧北上川の堤防工事はだいぶん進んでいるようでした。けれど道路から見ると、まさに見上げるような高さがあります。川を遡る津波を考えてのこととは思いますが、川面は見えませんでした。附近の住宅の二階から見えるかどうか。工事が終われば堤防の上に道ができるのでしょうけれど。

 昨年の12月に気仙沼リアスアーク美術館に行きました。そこには津波で流されて回収された生活品や学用品などが置かれてありました。これらを使っていた人は無事だったのだろうかなどと思うと、胸に迫るものがありました。

 仙台に住んでいるので、東北三県の事がどうしても中心になってしまいますが、青森県や茨城県、千葉県のことも考えなければなどとも思います。千葉県のタンク火災は首都直下地震を考えると対策はどうなっているのかと考え込んでしまいます。

2019年2月12日火曜日

伊東愛子の『こねこのなる樹』


 昨年暮れ(12月20日頃)ラジオから「猫畑」と云う言葉が流れて、思い浮かんだのが『こねこのなる樹』でした。でもタイトルだけで作者も内容もすっかり忘れていました。たぶんこの辺じゃないかなと捜したところ、伊東愛子の同名の本が出てきました。伊東愛子はこの「こんなマンガがあった」で一番初めに取り上げた人です。
 で、早速読んでみました。こんなお話だったのかと改めて思いました。

 両親を亡くし、アパートで兄と暮らす高校三年生の勝美ですが、結婚して子供のいる姉が拾った子猫を連れてやって来ます。もとからいた猫と併せて三匹になってしまいます。大家さんから一匹は飼っていいよといわれていたのですが、その一匹の他にもう一匹拾った猫がいたのです。それで三匹です。
 夜に庭から猫の鳴き声、逃げ出したかと慌てて庭に出ると二匹の子猫が。一匹は怪我をしていて、結局二匹とも家の中に入れます。
 翌日学校で猫のもらい手の話をする勝美ですが、学校帰りに子猫をいじめている子供から猫を救います。こうして子猫は都合六匹になります。
 もらい手も見つからず、あれやこれやがあり、大家さんの孫娘にばれてしまいます、そして大家さんにも。六匹ときいて驚く大家さんです。
 「なぜ急に子ネコが集まったのかしら?」との勝美の疑問に「お姉ちゃんちの裏庭に「こねこのなる樹」があるからよ」と孫娘の指さすところには銀色毛皮のねこやなぎが。
 この孫娘は赤ちゃんの時に両親を亡くしています。それが語られているのが22ページなのですが、孫娘は最近両親を亡くした勝美を可哀想に思い見ていたのです。

 高校生ですから、進路の悩みも出てきます。働きながら専門学校と初めの頃は考えているのですが、結局は姉や兄の勧めで大学を目指します。
 最後から二つ目の齣には、兄の友達で参考書をくれた男が出てきて、最後の齣は顔を赤らめる勝美で終わっています。

 最近は野良猫を見ることは滅多にありません。でも昔はけっこう見かけたような気がします。猫に首輪は滅多にないようで、飼い猫が外に出ることも多かったようです。このマンガは昭和53年一月号に載ったものなので1977年に描かれたもののようです。確かにこのころはかなりの数の猫がうろついていたのでしょう。

 マンガのタイトルは大事なのだなあと思ったものです。中身はすっかり忘れていても風変わりなタイトルだけはしっかりと覚えているのですから。
 後書き代わりの制作エピソードに花郁悠紀子が出てきますが、彼女は1980年に亡くなったことが書かれています。


 書名『こねこのなる樹』
 出版社 朝日ソノラマ sun comics 641
 昭和56年4月30日初版発行


 ネコヤナギと猫は、萩尾望都のマンガにネコヤナギネコが一齣か二齣出てきているような気がするのですが、確かめていません。

2018年12月5日水曜日

坂田靖子の『パパゲーノ』


 坂田靖子については、以前『リカの想い出 永遠の少女たちへ』で、触れています。
 この人はいろいろなジャンルの作品を描いています。その中から何を持ってくるのか悩みましたが、今回は表題作を含む短篇集を選んでみました。

 この本には表題作『パパゲーノ』の他に五作品が入っています。一つずつ観ていきたく思います。

 まずは『パパゲーノ』と『めりー・ひーる』についてです。
 パパゲーノと云えば思い浮かぶのはモーツァルトの「魔笛」に登場する人物です。
 でもこのマンガに出てくるパパゲーノは草と木でできた小さな家に住んでます。ページをめくると、パパゲーノの大きさがわかります。ライオン狩りに出かけるのですが、ダンディライオンなのです。勝ったり負けたりしているようです。タンポポの草丈の 1/3 もないでしょうか。それでも家の屋根で栽培しているキノコを食べ、ダンディライオンに勝った時にはタンポポコーヒーを飲みと静かに暮らしていたのです。
 ところがある日フィガロの歌を歌いながら現れた少年に静かな生活は破られてしまいます。パパゲーノの家の屋根のキノコは盗られるは、魚を釣り上げると横からかっさらうは、とパパゲーノの日々は落ち着かなくなります。そんな雨の日、フィガロの歌を歌いながら川辺を走っている少年は足を滑らせ川に落ちてしまいます。慌てて家を出て少年を助けようとするパパゲーノですが、少年は見つかりません。
 もとの静かな生活が戻ってきます。遠くから来たカメが山を越えた向こうでフィガロの歌を聞いたと教えてくれます。
 最後の齣がカーテンコールと題されて、コーヒーを飲んでいるパパゲーノとカメの前にフィガロの歌を歌いながら少年が現れます。この齣は何を意味してるのでしょうか。

 三番目に載っているのが『めりー・ひーる』です。繁みの中に棲んでいる妖精のようなものです。羽はありません。かんしゃく持ちでかなり我が儘なようです。めりー・ひーるが茨を抜けて森の中に入ると魔女の家に着きます。魔女は大きな鍋で何かを煮ています。地下で眠る龍(?)を起こす薬だそうで、龍に乗ると星まで行けるとのことです。そんなことに興味のないめりー・ひーるは帰るのですが、一陣の風(?)で気が変わり魔女のところに戻ります。ところが扉は開きません、魔女と龍はいつもめりー・ひーるの居るところで彼女を待っています。
 さて、どちらが先に家に帰ろうとするのでしょうか。

 この二作品はファンタジーなのですが、何も変わったことは起きていません。身体が小さいとか、カメが話すとか、魔女と龍が出てきてるじゃないかとかは置いておいてください。不思議なことが起こらなくてもファンタジーになるのだなぁと、特に『パパゲーノ』を読みながら考えてました。

 四作目は『フロスト・バレー』です。
 冬の、とは云っても冬至祭なのでまだ本格的な冬ではないはずなのですが、夜のお話です。キング・フロストの落とした冬至祭のタネが原因で何でもかんでも凍り付くと云うもので、結局は夢オチになっているのですが、面白いファンタジーです。

 五作目の『壁紙』は、「マザー・グース」のいろいろなお話がもとになってできています。終わりから三ページ目の、少年の「でも……誰かいるよ 誰か……ぼくがいないと困る人が……」はなかなかに考えさせられるセリフです。マザー・グースを知らなくても面白く読めると思います。

 六作目はアンデルセンの「ナイチンゲール」のマンガ化です。

 さて、二作目ですが、『海』、この短篇集の中では一番気に入ったものです。
 としゆき少年の夏休みの話です。小さい頃に見た図鑑のせいで海が嫌いになったとしゆきですが、両親は海水浴が大好きです。
 夏休みの土日に海辺のおじいさんの家に行くことになります。早速海に行こうとする両親を振り切ります。夜、海の音を聴きながら思います、「枕の下が海だ おじいちゃんはこんなとこにすんでてなんともないのかな」と。
 翌日、親子三人の海水浴があり、その後海沿いの道を歩くとしゆきとおじいさんの場面になります。「おじいちゃん海がこわいの?」「こんなでかいものこわいにきまっとるだろう!」
 おじいさんに買ってもらった帽子をかぶり一人海辺の道を歩き、ガードレールに寄りかかり海を眺め波を聴くところで終わっています。

 何の事件も起こらないありふれた日常を描いただけのマンガなのですが、妙に心に残ります。ほとんど二日間のお話なのですが、としゆきの成長を感じることができます。それは直截には描かれていませんが、最後の海を見るシーンでそれを表していると思えます。


 書名『パパゲーノ』 坂田靖子傑作集 
 出版社 MOE出版
 1989年4月 第1刷



 今日からから九年目になります。この一年は五回だけでした。次の一年はどうなることでしょう……



 【追記】2019年7月31日
 先日、「世界史を変えた異常気象」を読んでいましたら、1941年にソ連に侵攻したドイツ軍は11月に寒波に襲われ、12月上旬には身動きがとれなかったとありました。積雪の記載はありませんが、モスクワで零下25.9度まで下がり、場所によっては零下50度にもなったとあります。知らなかったとはいえ、12月上旬でこんな事になった年もあったなんて。
 『世界史を変えた異常気象』2019年4月30日 第1刷発行 田家康
 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社


 【さらに追記】2019年12月5日
 今年は北日本では12月上旬に40 cm を超える積雪のあったところもあり、うっかりしたことは書けないなぁと思い知らされるこの頃です。