2019年12月5日木曜日

沖倉利津子の『木曜日はひとり』


 セッチシリーズの三冊目です。表題作の他に『おおきな日曜日』が載っています。それでは雑誌掲載順に見ていきましょう。

 『おおきな日曜日』からですが、夏休みの林間学校が舞台になっています。このシリーズには珍しく、セッチは脇役です。林間学校の班割りからお話が始まります。いつもの男子六人で一つの班を作ります。その中の二人が、同じ女の子(キヨちゃん)に好意を抱きますが……
 何とかしようとする柴崎真実ですが、女の子は実は柴崎が好きで、とややこしい(?)事になっています。セッチから「つきあってあげなよ」と言われた柴崎は65ページで以下のように考えるのです。「そうかんたんに考えられたらいいけどな……(中略) みんなひとりの人間でそれぞれに感情があって…… むずかしいんだよな」と。また、69ページから70ページにかけての柴崎の考えもなかなかのものです。六人の中では一番大人なのでしょう。
 さて、セッチですが73ページに出てきた時には、「女の子のほうの気持ち完全に無視した連中だな!!」と、柴崎のいない五人の連中に言います。
 柴崎はキヨちゃんの気持ちを知りながらも付き合うことはしないで、六人のグループは元通りになります、たぶん考え方が一回り大きくなって。

 つぎに、『木曜日はひとり』ですが、セッチが、知らない男の子からラブレターをもらうところから始まります。どうしようと右往左往するセッチですが、11月23日木曜日に手紙の主の斉藤君とデートをすることにします。ぎごちないデートから帰ってあれこれと思い悩むセッチです。
 自分の全部を見てもらおうと斉藤君を日曜日の野球に誘うセッチ、斉藤君は福留からこの仲間のルールを聞きます。
 44ページから46ページは野球をしているセッチたちを見ている小林鉄の内心の思いなのでしょう。
 14ページに林間を思い出すとのセリフがあります、なぜ収録の際に順序を入れ替えたのでしょうか。

 以上があらすじです。

 『おおきな日曜日』では中学生のそれぞれの個性がうまく描かれています。柴崎はこのお話の主役なのですが、考えがものすごく大人びています。いろいろなことを考えています。自分の行動の結果も勿論です、だからこそ、キヨちゃんを振ったのでしょう。70ページに片方だけの思いと云う言葉が二度出てきます。思いとは、それだけ重い言葉なのでしょう。
 『木曜日はひとり』では、セッチが知らない同学年生から手紙をもらうところから始まります。そこから恋の物語の始まるマンガもありますが、そうはならないところがこのシリーズです。斉藤君がこのグループにうまく溶け込めるような印象でマンガは終わります。セッチからの手紙の相談などで小林鉄はずいぶんと登場して、重要な役割を果たしていますが、それは割愛します。


 書名『木曜日はひとり』
 出版社 集英社 マーガレットコミックス MC 414
 1979年6月30日 第1刷発行  手元のものは1983年1月25日 第9刷です


 今日から十年目になります。本当に夏になるとアタマがどっかにいってしまうようです。次の一年こそはと思うのですが……

2019年7月31日水曜日

萩尾望都の『小夜の縫うゆかた』


 全国的に梅雨も明け、暑い日々が続いています。そこでゆかたのマンガを取り上げます。
 ずいぶん古いマンガです。ネットでもストーリーは載っていますが、念のために書いておきます。
 中学二年の小夜はゆかたを作ります。一昨年、母が買った赤とんぼ模様の布地を使って。子どもっぽいと言われつつ、生地を裁ちゆかたを縫っていきます。毎年、夏になるとゆかたを縫ってくれた母を思い出しながら。水たまりで転んだこと、見知らぬ女の子にゆかたを貸して、そのままどこかに女の子がいなくなったこと。針を指に刺してその痛さで、家の前で倒れた妊婦さんのことを思い出したりします。
 赤とんぼ模様の布地を買ってきて、これで今年のゆかたを作ってあげると母は言います。しかし交通事故で母は逝ってしまいます。
 最後のページは枠線無しの一齣です。
 ところどころに、今の兄と兄の友達の様子が入ります。

 このマンガを最初に読んだ時には、素直に以下のことを思いました。
 母の残したゆかた地を裁ちながら母との思い出を回想しているのだと。母の初盆の思い出には胸を打たれました。
 毎年ゆかたを縫う母、ゆかたを着て楽しかったこと、水たまりで転んで大泣きしたことなど。長い髪を切ったことも語られています。
 そして最後のページでは、自分でゆかたを縫うことで、母を失った痛みを乗り越えていく小夜を描きたかったのかなぁと。
 扉絵と最後のページのせいで、もうゆかたができあがってしまっているような気になったりもしました。

 この時、作者は22歳です。ですので、中学生くらいの気持ちもよくわかるのかなあと思ったりしたものです。

 ところが、雑誌「暮しの手帖」第4世紀55号(2011・12年)に作者が書いたのを読んで、それだけではないことに気がついたのです。
 それによると、30歳ごろに両親と大げんかをしたとあります。その後は、仕事を理解してもらうのはあきらめ、互いに漫画の話はしないと暗黙の了解で暮らしてきたとありました。2010年に雑誌社の取材に母親は「漫画に反対したことはいっぺんもない」と言ったとのことでした。
 萩尾望都作品集(赤本)16巻の後書きに父親が娘のことを書いています。この巻に載っているマンガが『とってもしあわせモトちゃん』です。だから父親に書いてもらったのでしょうか。出版年は昭和52年9月10日となっています。この年に「萩尾望都プロダクション」を父親を代表に作ったと wikipedia にあります。二年しか続かなかったようですが。
 マンガを描く娘と両親の確執は、マンガ家になった頃に始まっているのでしょう。だからこそ「お母さんはみんな死んじゃう。あるいはいない」になるのでしょう(ここはトーマの休日さんの 半神 自選短編作品集 萩尾望都 Perfect Selection 9 のカスタマーレビューからの孫引きになります。このかたのレビューは興味深く読めました。ただ、最後の一文は筆が滑ったのでしょう、突っ込みが入っています。 https://www.amazon.co.jp/hz/reviews-render/srp/-/RU7NAYOPSM0G0/)。
 そしてそれらのコンプレックス(複合感情・複合観念)を乗り越えて描き続けた事は読者にとっては幸せなことです。


 タイトル『小夜の縫うゆかた』
 書名 『トーマの心臓』3巻
 出版社 小学館 フラワーコミックス FC-43
 昭和50年6月1日 初版第1刷

 古いところで恐縮ですが、萩尾望都作品集2『塔のある家』にも載っています。

2019年5月31日金曜日

藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』と『カンビュセスの籤』


 どちらのお話も Wikipedia に載っています。

 まずは『ミノタウロスの皿』から取り上げます。
 ミノタウロスはクノッソスのラビュリントスの奥に棲むという身体は人間で頭は牛という怪物です。

 主人公は宇宙船の事故で一人生き残り、地球型の惑星に不時着します。その星にはウスと呼ばれる地球人そっくりの家畜と、ミノタウロス型のズン類という支配者がいます。
 ウスは服を着ていて外見は地球人にそっくりです。会話も普通にズン類と行っています。ウスの娘ミノアに恋心を抱く主人公ですが、ミノアはミノタウロスの皿に選ばれた肉用種です。
 言葉は通じるのですが、かみ合わない会話(p. 172 の九齣にその様子が描かれています)、その根底にある概念のすれ違い、どうすることもできない主人公です。

 以前に読んだ時には気がつかなかったことがあります。
 会話のできない種では、食べるものと食べられるものとはおおむね決まっています。たとえば、ヒトは美味しく牛肉を戴きます、最後の齣の主人公のように。でも、普通はヒトは、犬や猫のようなペットを食べることはまずありません。昔のヒトは食人もしていたとも言われていますが、いつでもしていたわけではないようです。
 アンデス山中に墜落した飛行機のことを思い出しました。
 地球外のことを扱っているのだからと云われてはどうしようもないのですが、このマンガにはいろいろと考えさせられるものがあります。互いに会話のできる異種同士の事についてです。この話のように割り切れるものなのか、葛藤はないのかなぁと。

 次に『カンビュセスの籤』です。Wikipedia ではわかりやすくするためか話の順番が違っています。
 「カンビュセスの籤」については p. 133 以下で主人公が語っています。そして p. 136 でもう一人の主人公はこう言います。「地獄をのがれて…… 別な地獄へとびこんじゃったわけね。」と。

 カンビュセスの籤に当たった男は、逃げて霧の中をさまよい霧を抜けて遥か未来の、生き残りが一人だけの地に来ます。互いに言葉は通じません。
 双方の思いが通じることはありません、翻訳機の修理が終わるまでは。最後の日に互いの思いを語る二人。恋愛感情は一切でてきません、当たり前ですが。
 籤に当たり、ミートキューブになるために装置に上る少女で終わります。

 未来の悲劇の物語です。終末戦争によって二十数人だけが生き残り、籤を引いて誰かが犠牲になり、一万年の冷凍睡眠を行いを二十三回繰り返し、一人だけになった生き残りの少女、そこ現れた男なわけです。
「あたしたちには生きのびる義務がある」とは、地球で生き残ったものの思いなのでしょう。そして、唯一の救いが「一万年眠ってあなたが目覚めたらこんどこそきっと…」にあるのです。シェルターから宇宙に向けての発信につなぐ希望なのです。
 昔読んだ時には、未来の戦争の悲劇だけにしか思いが至りませんでした。けれど、今回読み返してみて、悲劇ではあるけれども、地球に発生した生命体の代表となるのには成功するかもしれないとの思いを持ちました。

 ヒト以外の生命がすべて消えてしまうと云うことは、地球が無くならない限りは、まあないでしょうが、その逆のヒトが消えてしまうことはありそうでゾッとします。


 書名『ミノタウロスの皿』 異色短編集1
 出版社 小学館 ゴールデンコミックス(GC番号はありません)
 昭和52年12月15日初版第1刷発行

 タイトル『カンビュセスの籤』
 書名『ノスタル爺』 異色短編集4
 出版社 小学館 ゴールデンコミックス(GC-14)
 昭和53年4月15日初版第1刷発行

 文中のページは上記二冊のものです。

 書名『カンビュセスの籤』 愛蔵版 藤子不二雄 SF全短篇 第1巻
 出版社 中央公論社
 昭和62年2月5日初版印刷 昭和62年2月20日初版発行
 これには「ミノタウロスの皿」と「カンビュセスの籤」が載っています。

 上記の三冊は当然のことながら藤子不二雄名になっています。

 この他に手元にあるものは
 藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版 f1 に「ミノタウロスの皿」、f4 に「カンビュセスの籤」が載っています。どちらも2000年に出版されています。

2019年4月29日月曜日

杉本啓子の『夢幻宮』


 作者は貸本でのデビューが1964年とあります。'66年から別冊と週刊の少女フレンドに作品を描いています。しかし私がこのマンガ家を知ったのはずっと後のことです。'79年の『空中庭園』で初めて単行本を買いました。'75年が最初の単行本が出た年とありますので、本屋で見かけた『ジニの魔法つかい』(これはさすがに手は出しませんでした)の出た年です。

 さて『夢幻宮』ですが、八つの短編からなる作品集です。副題が「幻想ロマン自薦異色短篇集」とあります。その中から読み返してみて面白かったものを取り上げます。

 まず、「溶けていく風景」から始めます。
 Ⅰ. ファンタスティック 不仲な両親と四、五歳くらいの女の子、身体の1/4くらいの毬に上手に乗ります。「見て見て」と言っても両親は子供のほうを見ません。「見て見て いるのは あたしだけ」との視線の先にはサーカスで玉乗りをしている自分の姿。
 Ⅱ. サディスティック 砂場でいじめられる女の子、いじめる大きな男の子は画面にはほとんど出てきません。「しばらくして…… その子病気で死んだけど あれはぜったいに病気なんかじゃない あたしをいじめたからだ 当然のことだ」
 Ⅲ. ロマンティック 中学生になった女の子は、一葉の写真をアルバムで見つけます。「これだれ? 新人歌手?」との問いに、昔、女の子をいじめてた男の子と聞かされます。自分の記憶では鬼のような顔だったからです。その子はとても苦しんで死んだことを思い出します。女の子は教室で倒れます。「A子ちゃん!」と級友達が呼びかけます。となりの席のB子ちゃん、いまのとこ大好きなCくん、そしてパパもママもみんなみんなテレビの中に入ってしまって、きこえてくるひとつの音
 Ⅳ. フィナーレ 激しい砂嵐の中にいる女の子、身体があるから痛みを感じるんだ、きえてしまえわたし、砂になれ! 風になれ! 消えてしまったわたし、空気のように生きたいよ、と最後のページは砂漠と満月で終わります。

 フィナーレの独白は思春期の女の子の思いなのでしょう。Ⅲ章でのパパとママはⅠ章のパパとママと同じです。両親の愛情の中で育ったとは思えません。だからこそ、きえてしまえになるのかなぁと。でも、救いがあるとすれば、「いたみも いとしさも かなしみも そのままに 空気のように 生きたいよ」にあると思えるのです。そのままにと云うところがひっかかります。かなしみもなくなれでないところに光明を見るのは考えすぎでしょうか。

 つぎに「夢幻宮」です。
 15ページと一番短い掌編です。見開きのタイトルページを除くと13ページです。
 最初の六ページは水族館です。迷子のお知らせから始まります。今日は迷子が多いなとつぶやく青年、その時その青年の迷子呼び出しがかかり、次に一緒の女の子の迷子放送がありと、次々に館内の人の迷子放送があります。右往左往する人々、一瞬の静止の次のページには十数匹の泳ぐ魚。
 ページをめくるとデパートの屋上です(昔はデパートの屋上には小さな子供のための遊園地があり、遊具がありました)。ボロの服をまとった老婆が一人椅子に座っています。もうすぐ閉店ですよと声をかける青年。老婆は語ります、「むかしむかし まいごになりましてね もう長いこと歩きまわっているんですが ちっとも家につかなくて とうとうこんなになってしまいました」 そして新幹線を模した乗り物を指さし、それに乗せてもらい、「これに乗りたくてここに来て 母親とはぐれてしまったんですよ ありがとう もう思いのこすことはありません」と言います。そこで乗り物の動きが止まります。すると老婆は「あの…… おそれいりますが……」 黒い齣に白の文字で「今度は観覧車に」
 その下の齣には「ガンガンガンガン ゴーオッ」の手書きの文字が。次のページにはガードを通過する電車が変則横割り四齣で描かれています。そして最終ページはビル群と夕日の齣で終わっています。

 水族館の話はまだわかります。迷子の呼び出しで次々に呼ばれるのは迷惑かもしれませんが、たぶん館内の全員が呼び出されるのだろうと云うことと、騒然とする中での一瞬の静止というのは。
 デパートの屋上の話のほうはわからなくもないのですが、ちょっと無理かなあと。
 新幹線を模した乗り物ではなくて、自動車かバスだったらまだ何とかなりそうですが(新幹線の開業はいつでしょうか。マンガの描かれた時期はいつでしょうか)。それにしても、時間の経過を表すために老婆を持ってくるというのはちょっと安易すぎるような気もするのです。これとは別の話になってしまうと思いますが、小さな子供のままで時間が経ってしまう、衣服のボロさで時の経過を示すというのはどうなのかなぁとも。

 「夢幻宮」は描き下ろしの作品のようです。


 書名『夢幻宮』
 出版社 東京三世社
 1980年9月10日初版発行

2019年3月11日月曜日

地震から八年


 今年も3.11が来ました。あの日と違って今日は夕方まで雨が降っていて、寒くはありません。TV では数日前から特集番組をやっています。

 震災関連死者は3,700名を数えるとの報道には考えさせられます。せっかく地震を生き延びたのにと思うと、その後のケアも大切なのを今更ながら思い知らされます。生きていても仕方ないと言っている方がいます。自殺される方も多いとのことです。

 すでに復興工事はほとんど終わったなどの声も被災地以外ではあるとか。それに対して、被災地では六割近くの方々が復興はまだまだと言っているとのことです。復旧はほとんど終わったかもしれませんが、復興は、と言ったところでしょうか。
 災害公営住宅の建設はほとんど終わったとのことですが、そこでの孤独死も起こっています。隣に住んでいる人に会ったこともない、名前さえ知らないというのは余りにも…。
 また、家が全壊ではない在宅被災者の悲惨も TV でやっていました。災害公営住宅にも入れない、さりとて家を修理するお金もない、あきらめきっているような被災者には声も出ませんでした。

 TV で2011年と2019年の同じ場所で撮った映像が流れていました。2011年の映像で、地震は自然災害だから仕方がない、けれどあれは許せないと、原発を指さして言っていたのが印象に残りました。原発立地地区の復旧復興はあるのでしょうか。

 先日石巻の日和山公園に行ってきました。天気は曇りでしたが、海は静かで、川も滔々と流れていました。あの日の海と川はと思うと……。
 旧北上川の堤防工事はだいぶん進んでいるようでした。けれど道路から見ると、まさに見上げるような高さがあります。川を遡る津波を考えてのこととは思いますが、川面は見えませんでした。附近の住宅の二階から見えるかどうか。工事が終われば堤防の上に道ができるのでしょうけれど。

 昨年の12月に気仙沼リアスアーク美術館に行きました。そこには津波で流されて回収された生活品や学用品などが置かれてありました。これらを使っていた人は無事だったのだろうかなどと思うと、胸に迫るものがありました。

 仙台に住んでいるので、東北三県の事がどうしても中心になってしまいますが、青森県や茨城県、千葉県のことも考えなければなどとも思います。千葉県のタンク火災は首都直下地震を考えると対策はどうなっているのかと考え込んでしまいます。

2019年2月12日火曜日

伊東愛子の『こねこのなる樹』


 昨年暮れ(12月20日頃)ラジオから「猫畑」と云う言葉が流れて、思い浮かんだのが『こねこのなる樹』でした。でもタイトルだけで作者も内容もすっかり忘れていました。たぶんこの辺じゃないかなと捜したところ、伊東愛子の同名の本が出てきました。伊東愛子はこの「こんなマンガがあった」で一番初めに取り上げた人です。
 で、早速読んでみました。こんなお話だったのかと改めて思いました。

 両親を亡くし、アパートで兄と暮らす高校三年生の勝美ですが、結婚して子供のいる姉が拾った子猫を連れてやって来ます。もとからいた猫と併せて三匹になってしまいます。大家さんから一匹は飼っていいよといわれていたのですが、その一匹の他にもう一匹拾った猫がいたのです。それで三匹です。
 夜に庭から猫の鳴き声、逃げ出したかと慌てて庭に出ると二匹の子猫が。一匹は怪我をしていて、結局二匹とも家の中に入れます。
 翌日学校で猫のもらい手の話をする勝美ですが、学校帰りに子猫をいじめている子供から猫を救います。こうして子猫は都合六匹になります。
 もらい手も見つからず、あれやこれやがあり、大家さんの孫娘にばれてしまいます、そして大家さんにも。六匹ときいて驚く大家さんです。
 「なぜ急に子ネコが集まったのかしら?」との勝美の疑問に「お姉ちゃんちの裏庭に「こねこのなる樹」があるからよ」と孫娘の指さすところには銀色毛皮のねこやなぎが。
 この孫娘は赤ちゃんの時に両親を亡くしています。それが語られているのが22ページなのですが、孫娘は最近両親を亡くした勝美を可哀想に思い見ていたのです。

 高校生ですから、進路の悩みも出てきます。働きながら専門学校と初めの頃は考えているのですが、結局は姉や兄の勧めで大学を目指します。
 最後から二つ目の齣には、兄の友達で参考書をくれた男が出てきて、最後の齣は顔を赤らめる勝美で終わっています。

 最近は野良猫を見ることは滅多にありません。でも昔はけっこう見かけたような気がします。猫に首輪は滅多にないようで、飼い猫が外に出ることも多かったようです。このマンガは昭和53年一月号に載ったものなので1977年に描かれたもののようです。確かにこのころはかなりの数の猫がうろついていたのでしょう。

 マンガのタイトルは大事なのだなあと思ったものです。中身はすっかり忘れていても風変わりなタイトルだけはしっかりと覚えているのですから。
 後書き代わりの制作エピソードに花郁悠紀子が出てきますが、彼女は1980年に亡くなったことが書かれています。


 書名『こねこのなる樹』
 出版社 朝日ソノラマ sun comics 641
 昭和56年4月30日初版発行


 ネコヤナギと猫は、萩尾望都のマンガにネコヤナギネコが一齣か二齣出てきているような気がするのですが、確かめていません。