2017年11月3日金曜日

北原文野の『夢の果て』


 作者のPシリーズの最初がこの『夢の果て』の「ひとりトランプ」です。『夢の果て』は全六巻のシリーズです。わたしが初めて見たPシリーズは「WINGS」を見ていませんでしたので、「プチフラワー」の『L6 外を夢みて』でした。

 Pとは 地上が放射能で汚染され、人間が地下都市に逃れて生きる未来の地球…。超能力者は、混乱させる者 (Perplexer) 略してPと呼ばれ、恐れられていた…。
 これは二ページの最初にある説明です。

 各巻に副題がついています。前半三巻と後半三巻では少し構成が違っています。後半は副題と構成が一対一に対応していますが、前半は副題よりかなり細かい構成になっています。

 超能力者を恐れ迫害する普通の人間と超能力者のことを描いたマンガです。戦いというよりは一方的な迫害と、それから逃れようとする超能力者と云ったところでしょうか。戦いは六巻だけでしょう。
 始まりは自分の子供スロウがPと知って苦悩する母親です。小さな弟サモスに暗示をかけて捨てて、母親はスロウを殺して自殺しようとするのですが、スロウは命を取り留めます。以下、スロウと彼を巡る人たちの話です。サモスがPなのは一巻の200ページでわかります。
 六巻の半ばから、Pと人間の戦いが始まります。終わりは、放射線の少ない地上で生活する超能力者達です。でもそこにはスロウはいません。サモスはスロウと二年半を過ごしたトゥリオに兄のことを聞くところで話は終わります。

 長い話の中で印象に残っている場面を少し書いてみます。
 三巻69ページの、警部の娘で大人になってからPになったヘレンのいまわの際の言葉、
 「生まれた時から"P"の人もいれば あたしみたいに途中から"P"になる人もいる…… それをどうして人間とPと分けられるっていうの……?」
 このマンガでは生まれながらのPもいれば後天的にPになる人間のいることで話が複雑になっています。

 四巻96ページにゲオルグIII世が出てきて、亡くなったゲオルグI世の葬儀を執り行っています。III世は非常に重要な人物です。五巻3ページに祖母が登場します。ゲオルグI世の妻で、透視のできるPです。
 同じ巻の179ページにはクァナが登場します。名前が出てくるのは193ページです。同じ作者の『クァナの宴』の主役です。III世の甥です。

 五巻76ページには「お母さんは どんな子でもいとしく思っているんだよ……」と助けたPの子供に言って、はっとするスロウです。悩んだ末に無理心中をしようとしたのでは、との母の思いに気づくのです。

 六巻131ページにはゲオルグIII世がPであることが描かれています。テレポートで姿が消えます。134ページ以下で、彼が高い能力の超能力者であることがわかります。
 147ページでスロウからなぜPを狩り、Pを利用するのかと訊かれ「わたしは頂上に立つのが好きでね……」と答えるIII世です。

 SFではよくある普通の人間と超能力者の戦いがテーマなのですが、それが最後にひっくり返るとは……と云ったところでしょうか。
 ゲオルグIII世がPなのが明らかになるところまでは、Pと人間との戦いかなと思わせておいて、実はそうではなかったという。祖母がPなのは五巻の最初に出てくるのですが、そこからIII世もPだと分かれというのは無理でしょう。
 自分が支配者の頂点に立ち、すべてを自分のものにするという野望を抱くIII世です。人間もPも嫌いだというIII世に、「それでは(中略)ずっとひとりで生きていかなくちゃならない」と言うスロウに激高するIII世です。 
 その後に、III世の口から自身が親から引き離され、妹のイリィと二人で生きていくことを強いられたことが語られています。

 甥のクァナについては、『クァナの宴』で作者は様々なことを描いています。この物語が途中で終わってしまったのは残念です。
 III世の行動は決して肯定されるものではないでしょうが、そこに至る心の動き、幼少期の暮らし、そういったものがあれば読んでみたいと思ったものです。愛してくれるもの、愛するものすべてを失ったというIII世の心情を知りたいものです。
 頂点に立とうとするIII世ですが、再建される新都市で彼の野望は達成されるのでしょうか? Pが生まれつきのものなら子供のうちに洗脳は可能でしょうが、ある日突然Pになる大人がいるとしたなら、超能力を隠し、磨いて、III世に叛旗を翻すものも出そうです。III世ならそのへんも考えているでしょうが。

 タイトルの“夢”というのはPの見る争いのない世界なのでしょうか。ゲオルグIII世の夢なら怖いなぁと。


 書名 『夢の果て』 1~6巻
 出版社 新書館 WINGS COMICS
 1986年3月5日初版発行 第1巻
 ……
 1991年6月10日初版発行 第6巻

 第4巻から消費税3%がかかっています。

2017年9月22日金曜日

松本和代の『フレンズ』


 だいぶ前にこの作者の『もな子…しゃべり勝ち!』を取り上げました。今回は最初の単行本の表題作を取り上げます。カヴァーを見る限りはギャグマンガです。それは間違ってはいません。けれども見方を変えるとけっこうシリアスな展開もあったりします。

 女子高に通う女の子二人と、男子校に通う男の子二人が主役です。
 舞台になっている街はダイエーはあり、マクドナルドもあり、通学には電車を使うようなところです。59ページにチバ県立東高校とありますから、千葉県が舞台なのでしょうが、東京の通勤圏ではないようです。
 インターネットで千葉県立東高校を調べると、千葉県立千葉東高校がヒットして、千葉市にありました。40年近く前の千葉市はこんなにものんびりしてたのでしょうか。

 楠本美之(みゆき)と横瀬香織の二人の女子高生が角井哲明君と桃田岩男君の二人の男子高生と出会い、付き合いを始めるというと、身も蓋もなくなりますが、これが面白いのです。
 美之と角井の出会いはダイエーの地下の食品売り場です。横瀬はお好み焼きを、美之は焼きそばを買うことにして、焼きそば大盛りでと頼むのですが、いつものおじさんではなくアルバイトの若い人がいます。それが気になって次の日、一人でまた行くと、バイトに「今日も大盛りですか」と言われて逃げ出す美之です。三日目に横瀬と行ってみるともうバイトはいません。縁がなかったとあきらめます。
 同級生の真矢から聞いた喫茶店で二人は、男同士で喫茶店に来ているバイトの男の子に出会います。東高校生で角井と桃田という名前です。三十分ほど話して別れます。東高校の校門前で待ち伏せをする二人ですが、40分ほど立っていてあきらめて、肉まんあんまんを買って公園で食べているところに角井と桃田が現れます。まんじゅうを食べながらの話がしばしあって、日曜日に四人でデートになります。デートの場所はなんとラーメン屋です。そのデートもうまくいきますが……。
 美之は角井と真矢が親しくしているのを何度か目撃します。それを見てもやもやする美之。真矢が角井の従妹と知るまでの80ページ近くは面白く読めます。と云ってもほんの二、三日しか経っていませんが。204ページの美之と真矢の顔の対比には笑ってしまいます。笑いを堪えられない美之とぶすっとした真矢と。
 最後の三ページがなかなかに面白いものです。角井に付き合って欲しいといわれ、顔を赤くする美之、最後のページは大きな一齣で、樹の下で赤い顔をして「あの…あの…」と言う角井と、赤い顔の美之で終わっています。

 この終わり方がいいなぁと思ったものです。ここから先は描かなくてもわかるでしょと云うところが初々しい二人をうまくあらわしているなぁと。
 カヴァー袖には食欲増進オトメチックまんが!とあります。確かに食べている場面は多いです。そもそもの出会いからして焼きそば大盛りですから。高校の場面も昼休みが多いし。美味しそうに昼食のシーンもかなりあります。
 このマンガのタイトルもよく考えられていると思います。友達同士として美之と横瀬、角井と桃田が出てきて、四人が友達になって、美之と角井、横瀬と桃田が付き合ってと、関係がわかりやすくなっています。


 書名『フレンズ』
 出版社 集英社 MARGARET COMICS MC 512
 1980年9月30日 第1刷発行 手元のは1981年1月30日 第3刷です

2017年8月31日木曜日

こうの史代の『夕凪の街 桜の国』


 昨年末から今年(2016年~2017年)にかけて『この世界の片隅に』が劇場アニメ化され評判になった作者ですが、ここで取り上げるのはもう少し古いマンガです。腰巻にはみなもと太郎のベタ褒めの推薦文があります。

 『夕凪の街』は昭和30年(1955年)の広島の原爆スラムが、『桜の国(一)』は、昭和62年(1987年)の東京都中野区が、『桜の国(二)』は平成16年(2004年)の西東京(田無)市と広島が舞台です。
 あらすじは、『夕凪の街 桜の国』で調べると wikipedia にかなり詳しく載っています。そこに、『夕凪の街』の最終ページの次に空白のページがありますが、それについての説明もあります。その次のページには、髪を梳いている母親とうれしそうにしている子供の絵があります。母親のフジミと娘の皆実なのでしょうか。

 それでは、印象に残る場面を少し。
 まず『夕凪の街』について。皆実の14ページのフラッシュバックと、15, 16ページの銭湯でのシーンです。「ええヨメさんなるな」に頬を赧らめる(ように見える)皆実ですがその下の齣は瓦礫から突き出た腕です。いずれの齣も小さいのですが印象的です。銭湯では皆実のあのことについての思いが書かれています。「死ねばいい」と誰かに思われ、それでも生き延びていることについての。
 西平和大橋の袂で皆実は同僚の打越に思いを打ち明けられ、キスされそうになります。その時皆実の脳裏をよぎったのはあの日のことです。打越を突き放し家へ逃げ帰る皆実に思い浮かぶのは、あの日のこと、それに続く日々のことです。「しあわせだと思うたび美しいと思うたび 愛しかった都市のすべてを人のすべてを思い出し すべて失った日に引きずり戻される おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする」には、ドキッとさせられます。
 翌日、打越に「うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい 十年前にあったことを話させて下さい」という皆実です。28ページの最後の齣と29ページの初めの齣の間には皆実の話があったのでしょう。「なんか体の力が抜けてしもうた」と言う皆実に、「生きとってくれてありがとうな」と手を絡ませる打越。
 その次の日から家で床についた皆実に会社の人たちが見舞いに来ます。しかし、日に日に弱っていく皆実、目が見えなくなります。32ページの五齣目から33ページは絵がありません、セリフだけです。「十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった! またひとりころせた」とちゃんとおもうてくれとる?」
 養子に出した弟の旭と伯母が水戸から着いたところで、皆実の思いがあって皆実のお話は終わります。終わりから二齣目に堤防の石段に腰を下ろす打越と、最後の齣は打越にもらったハンカチを持った皆実の左手で終わっています。「このお話はまだ終わりません 何度夕凪が終わっても終わっていません」でこのお話は終わっています。
 たった30ページでこれだけのことが描けるとは驚きしかありません。あの日のことは三ページしか描かれてないのに通奏低音としてすべてに流れています。
 戦争と災害では話が違うといわれるでしょうが、被災者が、私だけが幸せになっていいのかと思うことは多いと聞きます。「うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい」と同じ思いなのでしょう。幸せに生きることが亡くなった方の供養にもなりそうに思えるのですが……。
 皆実が亡くなったのは昭和三十年九月八日です。二十三歳でした。あの日から十年経っています。
 佐々木禎子が亡くなったのは、同年の十月二十五日でした、享年十二歳。「つるのとぶ日」を読んだのはいつ頃だったでしょうか、こちらは実際にあった話ですが。

 つぎに『桜の国(一)』は小学五年生の石川七波のお話です。七波は父の旭、弟の凪生、そして祖母の平野フジミと団地で暮らしています。七波は少年野球のショートをやっていて、野球大好きな女の子です。凪生は喘息で入院しています。団地の向かいの邸宅には七波と同学年の利根東子がいます。四月十日、七波は校庭の桜の花びらを拾い集めて、東子と凪尾の入院している病院に行って花びらを撒き散らして凪生を見舞います。検査で病院に来ていたおばあちゃんには怒られますが。
 そのおばあちゃんが亡くなるのはその夏(昭和六十二年)の八月二十七日のことです、八十歳です。秋には凪生が入院から通院に変わって病院の近くに引っ越します。
 この話はつぎの話の入り口のようで、特にあれこれはいいません。

 『桜の国(二)』は旭と七波、東子が主な登場人物です。凪生ももちろん出てきます、主役ではありませんが。
 退職した旭の様子・行動が変だと気づいた七波はある夜に散歩に出かけると出ていった父の旭の後を付けます。田無駅で17年振りに会いたいと思っていなかった東子に会います。二人で後を付けると、東京駅前から広島行きの夜行バスに乗ります。
 夜行バスでのおばあちゃんの病床シーンの七波の回想は切なくなります。
 広島に着いてからしばらく二人で後を付けます。東子と別れて七波はさらに後を付け墓地に入ります。平野家の墓を見る七波、その三駒前の七波が隠れてみている墓には、あの日とその直後に亡くなった四名の名前が刻まれています。
 70ページの川原の土手に腰を下ろす旭、71ページではそれが昭和30年代初めに変わります。以下、72ページから旭の回想シーンが5ページ半続きます。まだ小学生(たぶん六年生)の太田京花との出会いが描かれています。そして83から84ページには京花を嫁にしたい旭と「知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ……」というフジミの言葉があります。
 京花は38歳で血を吐いて倒れ亡くなります。倒れている京花を見つけるのは学校から帰ってきた七波です(直接描かれてはいませんが小学一年生)。93ページの「生まれる前そうあの時わたしはふたりを見ていた」はジーンとくるシーンです。平和大橋の袂の旭と京花は幸せそのものです。
 東子と凪生の二人もうまくいくことでしょう。
 終わりの三ページは帰りの電車での旭と七波です。旭は今年が皆実の五十回忌で、皆実を知っている人たちに会いに行ったことを伝えます。
 最後の齣のセリフは無ければないでも良いように思えるのですが、最後まで暗さを引きずらせないためには必要なのでしょう。

 原爆の怖さはそれを浴びたものに何時影響が現れるかわからないところにもあるのでしょう。皆実の父と妹はおそらく即死に近かったのでしょう、姉は二ヶ月後に、皆実は十年後になくなっています。京花は38年後になくなっていますが、フジミは80歳まで生きています。86ページの七波の思いは当然のことのように思えます。
 子供の頃の思い出の場所は大人になってから訪れると、その小ささに驚くというのはよくあることでしょう。桜が大きくなったせいではないでしょう。


 書名『夕凪の街 桜の国』
 出版社 双葉社
 2004年10月20日第1刷発行 手元にあるのは2004年12月15日第2刷です 

2017年3月31日金曜日

沖倉利津子の『火曜日の条件』


 セッチシリーズの二冊目です。「火曜日の条件」と「金曜日の試合は!?」の二つが入っています。あとはシリーズ外の三作品です。
 では、雑誌掲載順に見ていきましょう。

 まず『金曜日の試合は!?』です。隣の大学生でセッチの家庭教師をしているおにいちゃんの鉄が、きれいな女の人と歩いています。その人は、おにいちゃんのいとこの恵子で、昔、小学一年生のセッチに野球を教えた六年生でした。その頃は男の子と見間違うような女の子だったのが、今はどうみてもお嬢様なのです。
 自分が18になった時にあんな風になれるかと考え込んでしまうセッチです。可愛い女の子になりたいと、野球の試合を断り、母親にはスカートを買ってとねだったりするのですが…。わたしから野球を取ったら何が残るのかと思い悩むセッチ。
 そんなある日、ジーンズ姿の恵子がセッチを尋ねてきて、キャッチボールをしようと言います。キャッチボールをしながらの恵子との会話で色々と考えるセッチです。そして、仲間との5月5日金曜日の試合の練習へと駆けつけるセッチなのです。

 この回のテーマは自分らしいとは何かにあります。女らしくしようと馴れない事をするセッチですが、それはことごとくうまくいきません。「セッチから野球とったらなにが残んだよ?」に一瞬顔色の変わるセッチ。色々と思い悩みながらも、結局、いつものようにやりたい事、野球をする事になるのです。セッチにとっての自分らしい事は野球だったのです。

 つぎに『火曜日の条件』では、一学期の期末試験の前から始まります。試験の二週間前から試験勉強をする者と、それを不思議そうに眺めるセッチから話が始まります。
 優等生の一人染屋からの質問に怒りなぐるセッチ。何故なぐられたか分からない染屋は、柴崎に勉強以外は何も知らないと言われます。
 セッチは「試験試験でサ(中略)自殺する子の気持ちわかるなあ…」と言っておにいちゃんに「あまったれんな!!」と本気の平手打ちを喰らいます。「やってもできない人間の気持ちなんてわかんないんだ!」と言うセッチに、「ほんとうにやったかどうかよーく考えてみろ!!」と言うおにいちゃん。
 二時間かかって数学の証明問題を解いて、お兄ちゃんに見てもらうセッチです。答えは間違っていましたが、「じぶん自身のためにセッチが“やる気”ってものを理解してくれてうれしい」と思う鉄です。
 何とか無事に試験も終わり、通信簿をもらい一学期も終了になります。セッチはそれなりに成績も上がったようです。

 劣等生の悩みと優等生染屋の無神経と云ったところでしょうか。染屋は柴崎に「セッチは(中略)野球やってればしあわせなんだ」と言われ、おまえは?と問われて答えに詰まります。
 海に行くのは全部で七人と鉄で車一台では収まらず、鉄の姉勝三(かつみ)に電話をするセッチ。海に行くのに柴崎は、染屋を誘っています。その火曜日は7月25日でしょう。
 このマンガの見所は、鉄にぶたれてから自分で問題を解こうとするセッチにあるのですが、この二ページは面白いものでした。


 書名『火曜日の条件』
 出版社 集英社 マーガレットコミックス MC 373
 1978年11月20日 第1刷発行  手元のものは1983年1月25日 第13刷です

2017年3月11日土曜日

地震から六年


 あの日から六年経ちます。仏教では七回忌と云うことになります。
 行方不明の方は2,550余名を数えるとのことです。

 外から見れば、復興もだいぶ進んでいると云うことなのでしょうが、当事者にはそう思えないとの思いが強いようです。「インフラは復旧したけれど、復興はまだまだ」と言っていた被災者もいます。また、福島県では原発事故で避難指示が出て、それが解除されこれから故郷に帰れるという人が、「ようやく復興に取りかかれる」とも言っています。
 でも、風評被害は解消されそうにありません。あの日から時間が進んでいないのでしょう。

 TVでは、漁港の復旧は二割強と言っています。復興ではなく、復旧です。
 でも、当事者以外からはもう復興してるのではなどと思われているのでしょう。

 先日、仙台市荒浜と名取市閖上に行ってみました。荒浜にはバスの来なくなったバス停があり、慰霊碑と観音像があります。閖上では、嵩上げ工事が続いています。それを見ていると、まだまだ復興半ばだなぁとの思いが湧いてきました。

 何だかとりとめのないことになってしまいました。お許しください。


 昨年の4月14日と16日には熊本大分地震がありました。日本列島に住む限りは地震からは逃れられないようです。

2017年2月28日火曜日

清原なつのの『なだれのイエス』


 表題作は「花岡ちゃん」シリーズの三作目で最終作です。理屈っぽいところは前二作と同じですが、全体から受ける印象が違います。また、タイトルからも想像が付きますが、これは喜劇です。とはいえ、一人の人物、花岡ちゃんにとっては悲劇として現れます。

 ではマンガを見ていきましょう。
 まず扉絵ですが、これは「ピエタ」のパロディーになっています。花岡ちゃんがマリアに、簑島さんがイエスになっています。全体から受ける印象はどう見ても悲劇の始まりを予感させるものではありません。

 ストーリーについては以下を見ていただければ幸いです。これらを読めば分かるとおり、どう見てもシリアスだろうと思うのは当然なのですが、それでもこれは喜劇なのです。
 pippupgii.blog.so-net.ne.jp/2008-01-20
 wikiwiki.jp/comic-story/ 左のタイトル別一覧から、は~ほを選択し「花岡ちゃんの夏休み」をクリックしてください。この303には「なだれのイエス」までの五作品が載っていますが、ハヤカワコミック文庫にはこの他に二つあります。

 お話が始まって七ページ目で簑島さんが生きていることが読者には分かります。簑島さんから電話を受けた映研部長の遠野は、誰とも連絡を取らないようにと簑島さんに言います。まだ携帯電話のない頃のお話です。
 簑島さんが帰省したことを知らない花岡ちゃんの獅子奮迅の戦いが始まります。詳しくは wikiwiki.jp/comic-story/ の「花岡ちゃんの夏休み」307および308を見ていただければ幸いです。

 以前に読んだときには「花岡ちゃん」シリーズの続編と思っていたし、オチのあるシリアスな話と思っていました。でも、読み返してみると、やっぱり喜劇です。
 唯一シリアスかなと思えるのは、終わりから二ページ目の遠野がみやもり坂で転んだというところでしょうか、

 前二作とは三年の間があいて描かれていますし、ハヤカワコミック文庫では前二作の次ではなく五番目になっています。
 喜劇と割り切って読めば面白いマンガです。
 と云うわけで、前に取り上げた『花岡ちゃんの夏休み』と『早春物語』とは別に書いてみました。


 タイトル『なだれのイエス』
 書名『3丁目のサテンドール』
 出版社 集英社 りぼんマスコットコミックス RMC-219
 1981年12月19日 第1刷発行

 ハヤカワコミック文庫
 『花岡ちゃんの夏休み』
 2006年3月10日 印刷
 2006年3月15日 発行

2017年2月12日日曜日

市川みさこの『ラブ・ミーくん』


 市川みさこと云えば『しあわせさん(オヨネコぶーにゃん)』なのかもしれません。Wikipedia には『オヨネコぶーにゃん』の項目はありますが、「市川みさこ」はありません。ここで取り上げるマンガは、『しあわせさん』より少し後、たぶん平行して書かれたギャグマンガです。

 男の子二人(ラブ♥ミーとムーテ)と牧師さんが毎回の登場人物です。この三人が繰り広げるドタバタマンガです。男の子の名前は最初の話では出てきません、つぎのお話で二人の名前が分かり、マリアちゃんという女の子が登場します。

 最初の「天罰なんか怖くない」では、悪戯をする二人と、それに振りまわされる牧師というマンガを貫く構図が示されています。つぎの「牧師さまとラブレター」では、マリアちゃんに書いたラブレターと、牧師から借りた本を返すために持って出たラブ・ミーが、間違えて牧師にラブレターを渡してしまうと云うお話です。悩む牧師が面白く描かれています。
 「僕のパートナー」では、秋祭りのダンスパーティーに女の子と行くのですが、二人が狙っていたマリアちゃんは風邪でパーティーに行けなくなります。あぶれた二人の考えたのは、女の子の格好のラブ・ミーとムーテのカップルなのです。
 「魔法入門」からの三話は牧師の持っている魔法の本を巡るお話です。「魔法入門」では、魔法の本を持ち出したラブ・ミーが自分の影を使って芝刈りをさせると、影は芝の影だけを刈って、役に立たなかったというオチです。次のお話では魔法の本自身が魔法を使う話で、三話目では、魔法の本が子供達を持ち出してしまいます。手足の生えた魔法の本が両脇に子供を抱え口笛を吹いています。
 「名犬ブルーマウンテン」では、牧師が友人から預かった名犬が登場します。名犬なのですが、牧師が二、三日留守にすることになります。二人に犬を預けて帰ってくると、犬の性格は、子供達にそっくりに変わってしまっています。

 ギャグマンガの難しさは、どのように終わるかにあると思うのですが、このマンガの場合はどうでしょうか。見てみましょう。
 最終話のタイトルは「恐怖のオーメン悪魔ばらい」です。子供達に悪魔が憑いているに違いないと、悪魔払いをする牧師ですが、その様子を見るためたくさんの悪魔が集まってきます。「これが有名なエクソシストか」などと集まってきた悪魔が言っています。
 「悪魔ばらいなのに悪魔をよんでしまった」と自分の修行の足りなさを嘆く牧師。「本物の悪魔になるには… 修行がたりないようだ…」と思う子供達。集まってきた悪魔が何かをしてと云うわけではないようですが。
 「というわけでみんなが修行にでるのでこのまんがは… おしまいです」で終わっています。

 いなくなるのでおしまいは、確かにそうなのでしょうけれど、なんか肩すかしを食らったような気持ちになります。とは云っても代案があるわけでもないのですが。
 それと、子供達が修行にでる理由が分かりません。素直に読むと、悪魔になるための修行にでる、になるのです。それまでは悪魔のような行いを牧師にはしているのですが、悪魔のようだと自分では思っていません、悪戯をしているだけです。それがいきなり悪魔になるというのは無理があるのでは…、と思うのです。
 それでもこのマンガは楽しく読めました。


 書名『ラブミーくん』
 出版社 東京三世社
 出版年 1983年5月10日 初版発行

2017年1月25日水曜日

曽祢まさこの『死霊教室』


 何か禍々しいタイトルのマンガです。ストーリーは以下の通りです。

 中学三年生の藤本広子は、親の期待に添える成績がとれなくて、塾もサボってしまう。そんな広子を父親は叱る、「パパたちが子どものころは戦争で ろくに勉強どころじゃなかった」と。
 その翌日、また塾をサボりひとり街をうろつく広子ですが、家に帰りづらく足はいつの間にか学校へと向かっています。誰もいない教室であれこれ考えているうちにいつしか眠ってしまう広子です。
 ふと目を覚ますともう暗くなっています。そこに先生が来て、授業はもう始まっていると言います。言われた教室に行くと、すでに大勢の人がいます。その人たちを見ていて、広子は違和感を覚えます。知らない人がいる、お父さんのアルバムで見た戦争中の服装をした人がいる。そして気づきます、ここは死人の教室なのだと。
 隣の学生服の高校生が広子に言います。「きみはここにきてはいけない人だよ(中略)コートは方そでだけとおしていくんだ」と。そっと抜け出す広子ですが、教室を出るときにくしゃみをしてしまい、みんなに気づかれます。死人に襲われる広子、コートに群がりそれを引き裂いている間に逃げ出す広子、ところが廊下の先のドアには鍵がかかっています。襲いかかる死人たち、もうダメかと思われたその時、死人たちは消えていきます。一番鶏の鳴き声を聞いたように広子は思います。
 学生服の男は、広子が子どものころいじめっ子からかばってくれた、五つ六つ年上の男の子だったことを思い出します。
 広子は自分にあった高校を自分で選ぶことにして、勉強をするようになります。

 以前に読んだときはなかなか面白い話と思っていました。なんのために勉強するのか悩む女の子しか見ていなかったのでしょう。結末も上手くまとまっているし、さすがだなあと。

 けれど、読み返してみてちょっと、と考えたことがあります。
 父親の「子どものころは戦争で勉強どころじゃなかった」が、伏線になって死人の教室に繋がるのですが、ここに引っかかりました。
 勉学半ばで戦禍で亡くなった人たちは、広子を羨ましがることはあっても、恨むことはないのでは、と思ったからです。確かに恨まないことにはストーリーが成り立たないのはわかるのです。ですが、志半ばで死んでいった人たちを、このようなところに引っ張り出していいのかと考えたのです。
 このマンガが描かれたのは戦後30年です。わたしが読んだのはその五年あとです。意識して読み返したのは去年2016年です。この35年でわたしも変わったのでしょうか……。


 タイトル『死霊教室』
 書名『海にしずんだ伝説』
 出版社 講談社 KCなかよし KCN250
 出版年 昭和51年9月5日第1刷発行 手元のものは昭和56年6月19日第17刷です。