2012年2月28日火曜日

遠野一生の『ラプンツェル』

遠野一生は、いまは“一実”名で描いていて、ぶんか社コミックス(B6判)から出ている「ラプンツェル」は新しい名前になっているようです。

 ラプンツェルはご存知のとおり、グリム童話の中のお話です。魔女を親に置き換えると、このマンガの始まりの前に書いてある、「親の束縛から 異性愛をバネに逃れようとする 思春期の娘の心を象徴した民話 と解釈される」になります。
 ところで、このマンガでは、童話と共通するのは、ヒロインの長い(とは云っても身長ぐらいですが)金色の髪だけでしょうか、父親に監禁されているわけでもありません。

 主人公の海(カイ)は8歳の時、ヒロインの鹿乃子に会います。その時の鹿乃子は素っ裸で二十歳前でしょうか、もちろん海は名前さえ知らずにそれっきりになります。
 それから十年、バイオメカニズムを学ぶべく大学に入った海の前に鹿乃子が現れます、十年前と同じ姿で。海は、十年前の人の娘か妹と思います。鹿乃子はバイオメカニズムの沢辺教授を「お父さん」と呼んでいます。

 いろんな事がありますが、海と鹿乃子は普通につきあうことになります。
 海の知らないところでは、教授と鹿乃子の会話で鹿乃子は教授に作られたことが明らかになっています。また、教授は、亡き恋人に似せて鹿乃子を作ったことも明かされています。
 海はバイク乗りが趣味で、鹿乃子を後ろに乗せて海(うみ)を見に行きます。その帰り、飛び出してきた子供を避けようとして、事故を起こします。壊れた鹿乃子の左腕を見て、義手と思う海ですが……。
 教授から鹿乃子は、自分が作った事を聞かされますが、それを聞いても鹿乃子には「全然 嫌悪感を感じなかった(中略) 思い出の女(ひと)が彼女だとわかって なぜかうれしかった」と思う海でした。

 半ば脅されて、教授はアンドロイドを作ることにしますが、海と鹿乃子は設計図の入ったフロッピーディスクを持って、逃げ出します。
 船に乗った二人ですが、鹿乃子は輪廻転生の話をします。そして海が船内の席の空きを見に行った隙に、席にフロッピーディスクとペンダントを残し海に消えてしまいます。
 「機械として生きるよりも人間として死ぬことを選んだのだ」との海の思いがモノローグとして書かれています。

 ペンダントの中に膨大なデーターが入っているのを知り、新たな鹿乃子を作り上げたところでマンガは終わります。

 最後の20ページは、連載時のものとは違っています。こちらの方がスリリングで、終わり方もスマートです。

 疑問に思ったことを書いてみます。
 タイトルが何故「ラプンツェル」なのか。グリム童話(初版)では、塔に閉じ込められたラプンツェルとそこに通ってくる王子が主役です。むしろタイトルとしては「ピュグマリオーン」か、ピュグマリオーンによって作られたという「ガラテイア」の方がふさわしく思えたのです。最初のピュグマリオーンが教授で、二番目が海です。恋人を失った教授が作った鹿乃子、鹿乃子を失い新たな鹿乃子を作る海。そう思ったのです。

 ところが、読み直してみて、「ラプンツェル」の意味がわかったような気がしました。鹿乃子は自分の意志を持っていて、それに基づいて行動をしているわけです。それが「機械として生きるよりも人間として死ぬことを選んだのだ」になるわけなのです。
 自分の意志で王子を塔に招き入れたラプンツェルと、自分の意志で死を選んだ鹿乃子が重なったのでした。そして、この本の最初に書いてあった「親の束縛から 異性愛をバネに逃れようとする 思春期の娘の心を象徴した民話 と解釈される」の意味も納得できたのでした。
 とするなら、最後のページの海が少し寂しそうに見えるのもわかります。


 書名『ラプンツェル』
 出版社 偕成社
 1992年9月 初版第1刷発行

 連載は
 コミックモエ No.9〜No.11(1991年7月〜1992年4月)

2012年2月12日日曜日

倉多江美の『ぼさつ日記』

短編から長編までを手掛ける倉多江美ですが、表題のマンガは39話からなる作品で、作者唯一の週刊誌連載作品とのことです。

 主な登場人物は、中学生の地獄寺ぼさつ、火山灰裾野、留目(とどめ)トメオ、浅梨(せんり)ちゃんで、四人は同じ学年です。ぼさつはお寺の娘で、父は娘からは往生住職と呼ばれて、とーちゃんと呼びなさいといわれています。
 タイトルと登場人物が中学生と云うことから、ラブコメかと思うとさにあらず、シュールなギャグマンガです。カヴァー絵を見ればわかることなのですが。

 第一話は、朝目覚めたぼさつが面倒くさがって、最終回にしようとするところから始まります。とーちゃんに起こされて学校に行くと、美形の転校生・留目が現れます(この頃はイケメンという言い方はなかったのがわかります)。ぼさつはこの転校生に「だめ……ほれちまった」と恋心を抱くのですが……。

 第三話で裾野と浅梨ちゃんが登場します。
 この人の描く人物は極端に言えば、ジャコメッティの彫刻の身体に服を着せたようなものが多いのですが、裾野だけは違います。「どうせあたしはドラムかんよ」と本人が言う体型で描かれています。

 ぼさつと裾野は恋敵になるのですが、迷惑をかけられるのが留目なのです。
 会えばいがみ合うぼさつと裾野ですが、考えが一致すれば手を組むこともあります。それが第十話です。嫌みな女の飼い犬のリードを車に結んでしまうのです。
 12話から15話はぼさつの地獄巡りのお話です。最後は地獄から追い出され生き返るのですが、針山の針を土産に持って帰るのでした。

 23話に登場するのが「ひとりぼっちの悪魔くん」です。ぼさつと友達になり一人ぼっちではなくなります。以後、ほとんどのお話に登場し、ほかの登場人物とも仲良くなります。

 30話のお話が一番印象に残っています。「旅に出た太陽さん」と云うタイトルで、「なぜ毎日ここにいるのだろう」「真理をみきわめるために旅に出よう」と、太陽がいなくなってしまうというものです。みんな困っているところに太陽は戻ってくるのですが。
 一瞬にして太陽が無くなったら、物理学的にどうなるかなどということは、置いておきましょう、ナンセンスマンガですから。

 最終話は登場人物五人の挨拶だけなのですが、最後に全話に登場している太陽さんが挨拶に来るところで終わります。

 このようなギャグマンガあるいはナンセンスマンガが少女マンガ誌に載っていたのは、それだけ少女マンガの懐が広がったからなのでしょう。
 このマンガと同じ頃、『ポーの一族』があったのが、16話からわかります。


 書名 『ぼさつ日記』 倉多江美傑作集2
 出版社 小学館 フラワーコミックス FC-352
 出版年 昭和53年4月20日初版第1刷発行


 別に項目を立てた方がいいのかもしれませんが、気になっていることを少しだけ。

 この頃は少女マンガ誌にも、週刊誌があり、マンガの量としては、少年マンガを凌ぐほどだったかもしれません。思い出すままにあげてみると、「週刊マーガレット」「週刊少女コミック」「週刊少女フレンド」がありました。
 以下、Wikipedia によるとマーガレットは1963年の創刊から1987年、少女コミックは1970年から1977年、少女フレンドは1962年の創刊からから1973年までは週刊誌でした。一番古かった少女フレンドは1991年に月2回から月刊になり1996年の10月号で廃刊になっています。
 なぜ週刊少女マンガ誌がなくなったのか、ネットを見てもよくわかりませんでした。
 マンガの描き手の側からと、読み手の側の双方から考えてみる必要があるのはわかります。
 たとえば次のように書かれています。
 少女漫画は少年漫画よりも絵に重点を置くので、どうしても書き込みや仕上げ処理に時間がかかる。これは描き手の側から見た場合と思います。
 “BOY MEETS GIRL で始まりライバルや障害を乗り越えて両思いになってエンディングという黄金パターンは4コマ漫画以上に固定化されています”については、反論が出されています。恋愛沙汰だけが少女マンガではないので、反論の方がもっともだと思います。
 読み手の側が気が長いというのもありましたが、週刊少年マンガ誌を読む女の子が多いのも事実のようです。
 これについての答えがあるのかもわかりません。ときどき、何故かなぁと思ってみるのがいいのかもしれません。